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訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
四川省 楽山市 ~ 人口 355万人、 一人当たり GDP 32,000 元
➠➠➠ 楽山市内の 城跡リスト ➠➠➠
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楽山県城(南安県城、嘉定府城)
【 楽山市の 歴史 】
5000~10000年前にはすでに人類の活動がこの地で確認されており、紀元前 2000年ごろには青銅文明が出現していたようである。
そして紀元前 600年ごろ、古蜀国の最後の王権勢力となった開明氏らが、この青衣江の流域を拠点としていたという。
春秋戦国期の紀元前 309年、秦国の武王が遠征軍を派遣し四川盆地を武力併合すると、古蜀国の開明氏らも従属を余儀なくされる。以降、秦国は現地統治機構として現在の楽山市中心部に南安県を新設する。
同時に秦国は 自領(現・隴西省)を流れる涇水流域から、大量の住民を四川盆地やこの青衣江流域へ移住させ、中原文化との融合を推進していくこととなる。
そんな秦国の治世下の紀元前 256年、蜀郡太守・李冰(生没年不詳)により水運整備が進められ、岷江と大渡河の合流地点という地の利を生かした水運都市の発展の礎が形成される。
続く前漢時代の紀元前 135年、蜀郡および巴郡から一部が分割されて、その中間地帯に犍為郡が新設される(上地図)。南安県はこれに帰属した。
なお、この前漢時代、南安県出身の鄧通により高度な技術が開発されて貨幣鋳造が進められ、全国へ流通するようになっていた。当時は、「鄧氏一族の銭が天下を巡る」と比喩されていたという。
時は三国時代。蜀の 丞相・諸葛亮孔明は犍為郡の鉄鉱山開発を進め、鉄製の武器や工具類の大量製造を推進した。当時の楽山市域一帯の製鉄技術はかなりの先進的水準に達していたようで、これが孔明の北伐や物資輸送での大きな基礎力となったわけである。
三国時代が終わり、続く西晋時代、南北朝時代においても、この地の製鉄業は特に重視され国家管理される。さらに 広西省、貴州省、雲南省一帯から 10数万人が四川省へ移住させられ、楽山の犍鉄鉱山エリアやその河川流域等に広く定住していくことになった。
北周王朝の治世時代、「美しい(嘉美)土地」という意を込めて「嘉州」が新設される。
続く隋代に眉山郡へ、南安県も龍游県へと改名される。これは隋軍が陳王朝の残党勢力を掃討するために成都から楽山方面へ進軍し、その平定により最終的な中国統一を成就したことを記念し命名されたものという。
またこの時、現在の楽山市域内に巨大船の造船工場が整備され、以後、四川盆地内の河川水運上、重要な造船都市として君臨していくこととなる。
続く唐代、眉山郡は 嘉州や眉州へと改称を重ねていく(上地図)。またこの時期、山岳地帯で茶栽培も急速に拡大し、一大生産地帯となる。この唐代中期に、有名な「楽山大仏」が製造されるなど、大いに経済、文化が発展することとなった。
時は下って南宋時代には嘉州から嘉定府へ(下地図)、元代にも嘉定路へと改称が繰り返された。
最終的に清代中期の 1734年、嘉定州が昇格され嘉定府となり、その府役所は龍游県城に併設される(上地図)。この時、県城外の西南 5 kmにあった楽山にちなみ、龍游県は楽山県へ改称され、今日まで継承されているわけである。
この地も、現在はかつての南安県時代から続く古城壁はすべて撤去されてしまっている。街の路地に少しばかりの名残が残る程度である。東大街、土橋街、鼓楼街、府街、県街。城外北側には、護国寺巷、川主寺巷、張公橋街、米市巷街 などが残されており、城外の郊外市街地は北側へ広がっていたことが伺える。
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