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瀘州市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
四川省 瀘州市 ~ 人口 423万人、 一人当たり GDP 29,000 元
➠➠➠ 瀘州市内の 城跡リスト ➠➠➠
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瀘州城(江陽郡城)
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神臂城
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漢安県城
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綿水県城
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安楽戍城
【 瀘州市の 歴史 】
夏、商王朝の時代には梁州に帰属し、また周王朝の時代には巴国の管轄地域となっていた。その周王朝末期の紀元前 316年、秦が四川盆地へ侵攻し、巴国と蜀国を滅亡させ、その 2年後に巴郡と蜀郡を置いて、この地に新しい統治体制を構築する。このとき、瀘州一帯は巴郡に属した。
前漢時代の紀元前 151年、長江と沱江が合流する現在の瀘州市街地に、江陽県役所が開設されることとなり、蘇嘉が江陽候として派遣された。そして、同じく前漢時代の紀元前 135年、四川省の西南地域の少数民族居住区を統括すべく、犍為郡が設置された。江陽県はこれに帰属することとなる。
時は三国時代。時の益州牧の劉璋により、江陽郡が設置される。その下に、江陽県、符県、江安県が統括された。
そして劉備による蜀侵攻の 213年、諸葛亮、張飛、趙雲らは荊州より長江を遡って入蜀し、江州守将の厳顔を降伏させる。ここから、諸葛亮、張飛は北側の河沿いへ、趙雲は南側の河沿いから船で遡り、途中、益州各地の郡城&県城を平定しつつ、成都を目指すことになる。趙雲はこの西進に際し、江陽郡城を攻略している。
263年の蜀漢滅亡まで蜀の武闘派重鎮「張翼」であるが、当初は劉璋の部下であったが、劉備の軍門へ下って仕官した後、孝廉の推挙もあり、江陽県長官としてこの地に赴任している。
蜀滅亡後の西晋&東晋王朝の治世下でも、この行政区が継承される。南北朝時代、新たに東江陽郡が分離・新設される。
さらに、南朝梁の 統治時代(535—546年)、この地に瀘州役所が設置され、江陽郡全体を管轄することとされる。江陽県(現在の江陽区一帯)、漢安県(今の 納溪区大渡口鎮一帯)、綿水県(今の 長寧県一帯)、安楽戍(今の 合江県合江鎮)の 4地区で構成されていたという。
瀘州の地名であるが、これは付近を流れている 瀘水(現:沱江)という河川名から取られている。
隋代の 600年代、瀘州には一時期、瀘州総管府が設置されるも、すぐに廃止され、瀘州郡へと降格された。また、あわせて、江陽県が改名され、瀘州県となり、ここが引き続き、郡役所として、瀘州県、富世県、江安県、合江県、綿水県を統括した。
唐代の 618年、瀘州郡は再び、瀘州へと昇格される。それから 2年後には総管府が開設され、さらに翌年には都督府へと昇格された。
時代は下って北宋時代、瀘州軍節度が設置される。南宋時代の 1170年には、さらに昇格し本路安托使が置かれた。その後、瀘州は江安川と改名され、潼川路の 管轄下(瀘州県、江安県、合江県、納渓県)に改編された。
そして、モンゴル軍の四川省侵略の時代、瀘州一帯の統括役所は、度々、移転を迫られることとなった。最初は 瀘州県城、そして、合江榕山、江安三江磧、合江安楽山へと移され、最終的に合江にある神臂崖に築城された神臂城内に移転される。この 35年間にも及ぶ戦乱の後、元朝により中国は統一され、瀘州は廃止とし、瀘州県として重慶路の管轄下に、江安県、合江県、納渓県とともに組み込まれるのだった。
そして明代に入り、1373年、瀘州県は中央政府直属の四川行中書省の管轄下となり、さらに 3年後、四川布政使司の下に直接、帰属されることとなる。清朝治世下の 1802年、瀘州の地に川南永寧道が設置される。そして、清滅亡後、中華民国時代に瀘州は瀘県として改編される。1983年に、正式に地方級都市として、瀘州市が成立することになった。
かつての江陽郡城時代から続く古城壁も、現在はすべて撤去されていしまっている。街の路地に少しばかりの名残が残る程度である。東門口、東門路、鐘鼓楼歩行街、水井溝歩行街。
また、この古城跡東門付近に、かつての酒貯蔵用の地下倉庫施設がある。現在でも白酒製造のメッカであり、当地の酒は中国でも有名。
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