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綿陽市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
四川省 綿陽市 ~ 人口 544万人(市街区 127万人)、一人当たり GDP 32,000 元
➠➠➠ 綿陽市内の 城跡リスト ➠➠➠
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綿陽古城(涪県城)
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梓潼県城(梓潼郡城)
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江油城
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平武県城
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江油戍(江油関):三国志遺跡
【 綿陽市の 歴史 】
綿陽市内にある辺堆山遺跡から 4500年前の新石器時代の石器や陶器が発見されており、古代からの人類の生息が確認されているという。
紀元前 202年に前漢王朝を建国した劉邦は、その翌年の紀元前 201年、この地域に広漢郡を設置する。同時に、現在の綿陽市中心部である涪城区に、最初の城郭都市である涪県城が築城された。付近を流れる 涪水(今の涪江)から命名されたとされる。
紀元前 106年、広漢郡役所がそれまでの 雒県城(今の広漢市)から梓潼県城へ移転される。 そして、後漢時代の 115年、少数民族反乱に対処するため、益州首都機能および広漢郡役所が 涪県城(今の 綿陽市中心部)へと一時的に疎開され、 益州の中心都市としての役割も司っていたこともある。乱の平定後、再び、全機能が転出されてしまう。
三国時代、劉備の蜀建国後の 217年、広漢郡の北側が分離され、梓潼郡(群役所は梓潼県城内に設置)が新設される。現在の綿陽市域の大部分、および涪県城はここに帰属された。 さらに 225年、蜀は広漢郡の残りの部分を東西に分割する。新設した東広漢郡の郡役所は雒県城内に開設された。 蜀滅亡後、梓潼郡と東広漢郡は廃止され、再び、広漢郡に統一される。
その後、現在の綿陽市中心部にあった涪県城は、西晋朝末期の 307年、涪城県へと改名される。以降も、南北朝や五胡十六国時代の戦乱が続く中、行政区名が度々変更される(涪城、巴西、左綿など)。そして、隋代の 585年に涪県が綿州に変更されて以降、その行政区も固定化されていくととなる。
中華民国が建国された翌年の 1913年、涪城県から綿陽県へと改名される。「綿山の南」に位置するということで、「綿陽」と命名されたようである。
1985年に現在の市制が施行されて今日に至る。なお、唐時代の 詩聖「李白」は、この綿陽市涪城区の出身。
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