BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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江西省 南昌市 ~ 人口 510万人、 一人当たり GDP 48,000 元


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  南昌県城(豫章郡城、洪州城、隆興府城、南昌府城)
  進賢県城(鐘陵県城)



【 南昌市の 歴史 】

6000年前にはすでに南昌市一帯に原始的な人類の生息が確認されているという。 3000年前までには、南の青雲譜から北の艾溪湖に至る、現在の南昌市中心部に古代型集落が形成されていたとされる。

紀元前 221年に群雄割拠の春秋戦国時代を統一した秦国の治世も長くは続かず、紀元前 206年に項羽により滅ぼされる。

南昌市

その直後、江南の地に勢力を張った 英布(?~紀元前 196年)は項羽より九江王に封じられ、 この九江王国の版図下として、現在の江西省一帯も組み込まれる(上地図)。

しかし、間もなく項羽と劉邦の間で楚漢戦争が勃発し、項羽を見限った英布は劉邦方に味方し、最終的に紀元前 202年、英布の率いる軍も劉邦軍と合流して垓下の戦いで項羽を追い詰める。
垓下からの逃走を図る項羽に対し、劉邦は騎兵大将の 灌嬰(紀元前 250~紀元前 176年)に追撃を命じ、最終的に灌嬰率いる追手からの逃避が不可能と悟った項羽は自刃し、その胴体は灌嬰配下の部下 5人によりバラバラにされ、劉邦に献じられたのだった。

南昌市

その後も、灌嬰はさらに長江南岸の旧楚軍の残党を駆逐すべく軍事制圧を続け、最終的に紀元前 201年に完全平定を成し遂げる。灌嬰はしばらくの間、旧楚領の統治を委ねられることとなる。

このとき、九江郡から豫章郡が改称され、あわせて南昌県も新設される(引き続き、揚州に所属)。下地図。

南昌市

この南昌県城内に豫章郡役所が併設されることとなり、守将の灌嬰の主導の下、築城工事が着手される。その城郭は今の南昌駅の東南約 4 kmにある 皇城(黄安)寺辺りにあったと考えらており、城の周囲は 4,100 m前後の土壁に囲まれ 6城門を有する 県城(当時の人々は「灌城」と通称した)が完成することとなる(下絵図)。これが南昌市の起源となった。
なお、この「南昌」の由来であるが、ますますの発展を祈念した「昌大南疆」と「南方昌盛」の文言から命名されたとされる。以降、一帯を流れる 3河川と北側に中原と接する 5湖を有する水運都市として、大発展を遂げていく(下絵図)。

ちなみに南昌県城では、以後、この灌嬰が建城の父として、南昌城内の 守り神「城隍廟」に祭られることとなる。

南昌市

南昌市

その前年の紀元前 202年に、劉邦は前漢朝を建国し功臣らを諸王に封じたわけだが、その際、淮南王となった英布は 六県城(今の安徽省六安市)を王城として、九江郡、蘆江郡、 衡山郡、豫章郡などを支配することとされていた。上地図。
灌嬰は 潁陰侯(食邑二千五百戸)に封じられ、現在の河南省許昌市魏都区を拠点とすることとなった。

前漢朝を滅ぼした王莽の 治世下(新朝)、豫章郡が九江郡へ再編入されるも、後漢朝が復活すると、すぐに再分離され元の 2郡に戻される。

南昌市

上地図は、後漢時代末期の江南一帯の様子。赤色の → は、孫権の兄の孫策の行軍ルートを示す。

三国時代の呉領下でも、南昌県城は豫章郡の郡都として栄えた。

西晋朝の時代に、豫章郡が江州へ改称されるも、南北朝時代に入って再び豫章郡に戻される。この時期、多くの漢民族らが江南地域へ移民として流入し、中原文化が大いに伝播され、土地開発、文化の著しい発展が進んだ。

300年近く続いた南北朝時代を平定した隋王朝の治世下の 589年、全国的に郡制が廃止され、州制が採用されたことで、豫章郡は洪州へと改称される(下地図)。
しかし、2代目皇帝・煬帝の治世下の 607年、再び洪州が豫章郡へ戻される(唐代においても、幾度となく 洪州、豫章郡への改名が繰り返された)。

南昌市

続く唐王朝も滅び、五代十国時代の騒乱が始まると、最初は呉国の版図下に、続いてここから権力禅譲を受けた南唐国の領土として継承された(下地図)。

間もなく、華北地方に勢力を拡張させた 後周国(後に北宋朝へ権力禅譲し滅亡)の圧力に屈する形で、江東や江南一帯に勢力を張った南唐朝も臣下の礼をとることとなる(958年)。

当時、2代目皇帝の座にあった李璟は翌 959年、南昌府を 洪州(洪都)へ昇格させ、遷都計画の協議が進められることとなる(下地図)。
しかし、南昌城はもともと手狭で、皇族、貴族らの多くが計画に異を唱えるも、ついに 961年、王城が 江寧府城(もともとは金陵府城と呼称された。現在の南京市にあたる)からこの南昌城への遷都が強行されるに至る(南昌は南都へ改称される)。結局、すぐ後に、王都は江寧府城へ再遷都された。下地図。

この頃、南唐朝は後周朝の属国扱いとなり、国号も「江南」へ変更させられることとなった。

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最終的には 975年、北宋朝が 南唐国(「江南」を称させられていた)を滅ぼすと(実質上の南唐国 3代目皇帝であった李煜は降伏後、978年に殺害される)、同年、北宋朝は再び南昌府を洪州へ改称し、最終的に 1163年、隆興府へと変更することとなる。下地図。

南昌市

下地図は南宋時代末期のモンゴル軍の 侵攻ルート(青色)と、南宋残党軍の 撤退ルート(赤色)を示す。隆興府城もモンゴル軍により攻略されていることが分かる。

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続く元代には目まぐるしく名称が変更されている。まず 1277年に隆興路へ、1284年に龍興路へ(下地図)、さらに 1362年に洪都府へ、翌年 1363年に南昌府へと改称が繰り返されたのだった。

南昌市

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明代初期の 1370年、南昌県と新建県の 2県役所が、南昌城内に併設される。

南昌市

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続く清代も明代の行政区がそのまま継承された(下地図は、明代末期の 1582年当時のもの)。

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下の地図は、中華民国時代に蒋介石の率いる国民党軍が各地に割拠した軍閥勢力を武力掃討していく北伐時代のもので、1926年にこの南昌城も平定され、正式に中華民国に組み込まれた。

南昌市

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なお、現在の南昌市中心部の東湖区にあった 南昌県城跡(豫章郡城、洪州城、隆興府城、南昌府城)であるが、その城門も城壁も今日では全く残されていない。現在の高速道路で囲まれた一帯がその城郭都市の遺構と重なり、だいたいのスケールをイメージする手がかりとなる。

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