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三門峡市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
河南省 三門峡市 ~ 人口 230万人、 一人当たり GDP 50,000 元
➠➠➠ 三門峡市の 城跡リスト ➠➠➠
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陝県城(陝州城)
【 三門峡市の 歴史 】
三門峡市の中心部は黄河の開発に伴い、1957年以降に開発された、かなり新しい都市である。
今から 50万~60万年前には古代原人の生息があったとされ、また 6000年前の旧石器時代の 遺跡(上村溝、会興溝、王官溝一帯)からは、大規模な氏族社会を有した古代集落の存在が確認されているという。
紀元前 21世紀から 13世紀のころ、この黄河中流域一帯に夏王朝と 商(殷)王朝の政治の中枢が設置されていたわけであり、当然、三門峡市一帯でも畿内エリアとして、早くから複数の集落都市が形成されていたはずである(豫州に帰属)。
伝説によると、大禹が治水工事を実施した際、黄河に人工湖を建造し、 黄河の流れを 3つに 分断(人門、鬼門、神門)したことから、三道峡谷という地名が誕生したとされる。上絵図。
西周王朝の時代、封国であった焦国と虢国の版図下に組み込まれる。春秋時代期には、虢国、後に晋国の領土となる。
戦国時代期、韓国、続いて 魏国、秦国と為政者が次々に変わる、兵火必至の地であった。下地図。
紀元前 221年に秦の始皇帝により中原が統一されると、新設された三川郡下の陝県の管轄下に組み込まれた。前後漢時代には、弘農郡に帰属した。
三国時代期、魏国の恒農郡に、東西晋時代には司州弘農郡に属した。下地図。
南北朝時代の北魏の治世下の 487年、陝州が設置されると陝州陝県となる。
隋代には河南郡、唐代には河南道陝州、五大十国時代には梁朝下の鎮国軍陝州、つづいて 後唐朝、後晋朝、後漢朝、後周朝の治世下には保義軍陝州に属された。
北宋時代には 永興軍陝州(下地図)、金代初期には西安軍河南府、そして後期には金昌府陝州硖石県に帰属された。
元代に入ると、河南路陝州陝県、明代には河南府陝州、清代も明代の制度がそのまま沿用され、最終的に 1724年に河陝汝道直隷陝州の下に置かれた。
下地図は、元朝末期の紅巾軍の北伐ルートを示す。陝州城も攻略された。
1912年に中華民国が建国されると、豫西道と河洛道に、後に河南省第 11行政督察区の管轄下に配された。
下写真は、霊宝古城(河南省三門峡市霊宝市老城村)。
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