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商洛市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
陝西省 商洛市 ~ 人口 240万人、 一人当たり GDP 16,000 元
➠➠➠ 商洛市内の 城跡リスト ➠➠➠
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上洛県城(上洛郡城、商州城)
【 商洛市の 歴史 】
秦の始皇帝により中国統一が成った紀元前 221年、この地に 商県(付近にあった商山より命名)が設置される。 現在残る丹風県古城には、この当時の「商」の文字が入った瓦が複数、発掘されており、秦時代の商鞅の郊外集落の跡であった証拠とされる。
前漢を建国した劉邦は、その首都を長安とした。この時、長安は司隷州内史に属することになり、 この近隣一地方として弘農郡も設置される。 現在の商洛市一帯である 上洛、商県の 2県はここに帰属された。 ちなみに、この上洛県は、洛河の上流域に位置したために名付けられた、という。 前後漢時代には「水」に関する地名は不吉とされたらしく、後に上洛から上雒へ改名されている。
漢帝国の領土が西域へ大幅に拡大した前漢朝 7代目皇帝・武帝(在位 紀元前 141~前 87)の治世時代、 司隷州内史は 京兆郡(この地へ派遣された長官のことを「京兆尹」と呼んだ)へと改名される。 このとき、弘農郡は廃止され、上洛、商県の 2県は京兆郡に帰属された。
そして、三国時代。 魏に属し、引き続き、京兆郡と呼ばれていた。魏の曹丕時代には、上雒から上洛県へと元来の名称へ戻されている。
蜀を滅ぼした後、魏は西晋へ政権譲渡することになり、 その翌年の 266年には、この地は司州に帰属するものとされ、京兆郡の南部を分割して、一時期、上洛郡が新設されている。
南北朝時代の北魏王朝は、489年、上洛郡を洛州へと変更し、さらに 578年、北周の時代、 洛州から商州へと改名される。そして隋朝の 583年、上洛と上庸の 2郡を廃止し、商州へと統合させた。 そして同じく隋代の 607年、商州を廃止し、上洛郡を復活させる(郡役所は上洛県城)。 その管轄地は、上洛県、商洛県(隋文帝の時代、商県から商洛県へ改名)、洛南県、豊陽県、上津県の 5県とされた。
唐代の 618年、上洛郡を商州へと改名するも、742年には再び、上洛郡へ戻される。 そして再度、758年、商州へ改名される。
その後も、古都「長安(現在の西安)」に近いこともあり、度々、細かな行政区の変更が実施されている。最終的には、清滅亡後の中華民国時代、商州が廃止され、商県、洛南県、柞水県の 3県へと分割される。
なお、この上洛県古城であるが、今日現在、すべての城壁は撤去されてしまっている。 それでも、旧市街地の路地名には所々にかつての記憶が残されており、城郭都市時代の面影が偲ばれる。 府前路、南門路、中心街、東門、東環路、西関 など。
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