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訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
山西省 朔州市 ~ 人口 180万人、 一人当たり GDP 60,000 元
➠➠➠ 朔州市の 城跡リスト ➠➠➠
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馬邑城(馬邑県城、招遠県城、朔州城、馬邑郡城)& 魏の名将・張遼の出身地
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中陵県城
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劇陽県城
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汪陶県城
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埒県城
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楼煩県城
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善無県城
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金城県城(応州城)
【 朔州市の 歴史 】
朔州市内の峙峪遺跡や 辺耀遺跡、鵝毛口遺跡などの発掘調査により、約 28000年前の旧石器時代後期には、既に人類の生息が確認されているという。
春秋時代が始まる紀元前 8世紀以前、この地域は北方遊牧系民族の北狄の活動エリアであった。戦国時代に入ると、それらの遊牧民族の匈奴らは趙国の国境警備長官であった 李牧に撃破され、趙国に併合されることとなる。あわせて、現在の朔州市一帯も趙国の版図下に組み込まれた。
秦の始皇帝は中原を統一した後(紀元前 221年)、紀元前 215年より北方地域への領土拡大を図るようになる(上地図)。この北伐の総大将として派遣されたのが蒙恬であり、北方民族らを撃破しては、城塞都市を設置していくこととなる。この時に新設された都市の一つが、馬邑(後に馬邑県へ昇格)、善無県、沃陽県、中陵県、陰館県、楼煩県、武州県、劇陽県、崞県、平城県、 埒県、疆陰県 などであり、雁門郡(郡都は善無県城)の管轄下に組み込まれた。
この延長上で、蒙恬は春秋戦国時代期に諸侯により築城されていた長城群を連結させる大工事に着手し、万里の長城が世に姿を現すこととなった(上地図)。
前漢王朝期、今の朔州市エリア内には、馬邑県(今の 朔州市朔城区)、中陵県(今の平鲁区)、劇陽県(今の応県)、陰館県(今の 忻州市代県の北西部)、汪陶県(今の山陰県)、埒県(今の 朔州市朔城区の南部)、楼煩県(今 朔城区の南西部)、善無県(今の右玉県)が設置されており、すべて雁門郡の管轄下に置かれた。下地図。
後漢時代には、雁門郡の郡役所がより南側の 陰館県城(今の 忻州市代県の北西部)内へ移転される。
後漢末期には、北方民族らが度々、侵入するようになり、また後漢朝廷の制御力も日増しに衰退したため、多くの漢族らが南方へ移住することとなる。こうして大部分の県城は廃墟と化し、県役所も次々に廃止された。
三国時代の魏の統治下、雁門郡の郡役所はさらに南側の 広武県城(今の 忻州市代県の西 7.5 km)へ移転される。秦代に築城された万里の長城跡より北側は制御不能状態となっていた。上地図。
北方民族らの脅威がますます強まった西晋朝の時代、峪嶺(今の雁門関)より北側の各県城の住民らは、一斉に嶺南地区へ大規模移住させられる。下地図。
以後、この北方地域は、代わって鮮卑族が入植することとなり、その部族長の 拓跋猗盧(?~316年)の支配圏に組み込まれる。直後に、五胡十六国時代のさきがけとなる代国が建国される。
西晋朝が滅亡し(下地図)、華北では五胡十六国時代が始まると、鮮卑族の間でも各派閥抗争が激化し、さまざまな短命政権が誕生しては消滅していくこととなった。すなわち、代国、前燕、後燕、西秦、南涼、南燕 などである。最終的には拓跋猗盧の子孫により、 386年に北魏朝が建国され、華北地方の統一に成功する(下地図)。
以後、南の 東晋(続く宋朝)との間で南北朝時代が始まる。
この北魏の治世下、王都の 平城(今の大同市)近郊に属し、 朔州市エリアは 桑乾郡(今の 朔州市山陰県の東部)、繁峙郡(今の応県東)、馬邑郡に分かれて統括された。
北斉時代の 555年、朔州の州役所が 盛爾県城(今の 内蒙古和林格爾県)から馬邑県へ移転される。
557年には、馬邑県が招遠県へ改称されるも、引き続き、朔州の州役所として君臨した。
北周朝の時代、朔州は総管府へ昇格される。
南北朝時代を統一した隋朝は、総管府を廃止し、馬邑郡へ再編する。鄯陽県(朔県から改名)、 開陽県(今の 朔州市朔城区の南部)、神武県(今の 山陰県と応県の中間地帯)を統括した。
下地図は、隋朝末期の群雄割拠時代の様子。最終的に晋陽城を本拠地とした李淵により、唐王朝が成立することとなる。
唐代初期の 621年、再び馬邑郡は朔州へ改称される(742年、馬邑郡へ戻される)。この頃、馬邑郡城内には大同軍節度使も併設された。
843年、大同軍節度使は大同都団練使へ改名され、雲州(今の 大同市中心部)、蔚州(今の 河北省張家口市蔚県)、朔州(今の朔州市 中心部【朔城区馬邑小区】)の 3州を管轄した。
868年には再び大同節度使へ戻され、節度使役所は朔州城から 雲州城(今の 大同市中心部)へ移転される。
五代十国時代の後唐朝の治世下、2代目皇帝となる明宗が誕生した 金城県城(今の 朔州市応県金城鎮)内に応州役所が新設される。また同時に、朔州から 寰州(今の 朔州市朔城区西影市寺林の東部)が 分離・新設された。
この後唐朝を北部の 契丹(遼)国の支援で滅ぼした石敬瑭は、そのまま晋陽城で帝位につき、936年11月、後晋朝を建国することとなる。
なお、契丹(遼)は後晋建国の支援の見返りとして、燕雲十六州(万里の長城以南の 16州)の割譲を受け、かつ、毎年、膨大な財貨を贈与されることとなる。これにより、朔州、寰州、応州は 契丹(遼)に編入された。下地図。
契丹(遼)朝の統治時代、朔州は順義軍節度へ、応州は彰国軍節度へ改編される(西京道に所属)。
金朝もこのままの行政区を踏襲する。
元代には山西道大同路に属された。
明代、朔州は大同府の管轄下に置かれ、馬邑県を統括した。山陰県は応州の管轄区とされた。
清代も、明代の行政区が継承される。 1725年には、朔平府が新設され、右玉県(府役所が併設)、左雲県、平魯県、寧遠庁、朔州、馬邑県を統括した。
懷仁県と 応州、山陰県はそのまま大同府に帰属される。
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