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遂寧市
訪問日:2014年6月上旬 『大陸西遊記』~
四川省 遂寧市 ~ 人口 327万人、 一人当たり GDP 18,000 元
➠➠➠ 遂寧市内の 城跡リスト ➠➠➠
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遂寧県城(広漢県城、方義県城、小溪県城、遂州城、遂寧州城)
【 遂寧市の 歴史 】
春秋戦国時代下の紀元前 316年、秦の恵文王は大軍を派遣し、巴国と蜀国の武力平定を進め(下地図)、その旧領に巴郡と蜀郡を設置する。
現在の遂寧市一帯は 蜀郡(郡役所は成都城に開設)の管轄下に含まれた。
紀元前 221年には秦の始皇帝により中原が統一されるも、すぐに秦朝は滅亡し、楚漢戦争(紀元前 221年~前 202年)が勃発する。
最終的に項羽を滅ぼした劉邦により、紀元前 202年、前漢朝が建国される。その翌年の紀元前 201年、秦代に設置されていた巴郡と蜀郡から一部が分割され、広漢郡が新設される。その郡役所は当初、広漢県城内に開設されるも、後に梓潼県城、そして 雒県城(今の広漢市)へと移転されていく。
今の遂寧市一帯は、一貫してこの広漢郡に統括されていた。下地図。
後漢時代、広漢県の南部が分離され、徳陽県(今の龍風鎮)が新設される。
劉璋が益州太守であった時代、黄権が広漢郡下の広漢県の県令を務めた時期があった。当時の県役所は、現在の遂寧市中心部にある旧市街地の北東部分に立地していた(今の 塩市街あたり:北宋時代の城郭拡張工事の際、この一帯で広漢侯印が発見されている)。
劉備の蜀統治時代、広漢郡から東広漢郡が 分離・新設されると、その郡役所は当初、広漢県城内に併設されるも、後に雒県城へ移転される。この東広漢郡の初代太守には、劉備の 荊州・新野時代からの 忠臣・鄧芝が任命される。
彼は、後に劉備死後の呉との関係修復の際、蜀代表使者として呉へ赴き、孫権からその弁舌を称賛された人物である。
234年の孔明死後、鄧芝は呉の備えとして、江州(現在の重慶市)の守備を担当する。この時代、孫権から幾度も密使を受けては、呉の軍門に下るように勧誘されていたようである。243年には江州東部の涪陵で発生した部族反乱を平定するなど、最後の最後まで蜀への忠義を貫いたのだった。
彼の 死後(251年)、息子の鄧良が爵位を継承し、基本的には成都の政界中枢に在籍することとなる。この鄧良だが、魏軍による蜀侵攻の際、譙周が劉禅に降伏を勧告し、その降伏文書を鄧艾に手渡すべく、譙周と張紹とともに 3人で 雒城(鄧艾はここに成都城への攻撃本陣を構えていた)に赴く大役を司った人物である。この文書を受け取った鄧艾は大いに喜び、この 3人に手厚い接待を施したという。
蜀滅亡後の翌 264年に、司馬炎が魏帝から政権を譲渡され、西晋朝を建国する。旧蜀時代の文武官らはそのまま登用されるも、ほとんどの者は遠く離れた任地へ派遣される。鄧良も例外ではなく他州にある郡太守を拝命し赴任するも、老母を蜀の地に残していることもあり、間もなく辞職し、蜀へ帰国することとなった。
皇帝・司馬炎は彼を高く評価しており、例外的に父と同じ広漢郡太守職に異動させて、蜀の地に残らせることにしたという。
なお、この西晋朝の統治時代、東広漢郡は廃止され 広漢郡(郡都は雒県城)に吸収合併されている。
そして、西晋王朝も初代皇帝・司馬炎の死去にともない、中原を中心に八王の乱が勃発し、地方への統制力が弱体化すると、旧綿竹城にあった李特が西晋朝に反旗を翻し、広漢県城を攻撃する。このとき、西晋朝側は広漢郡の郡役所を徳陽県城へ移転する。しかし、徳陽県城も間もなく李特の率いる軍により攻略されてしまう。後に李特は広漢都全土を平定すると、広漢都(郡役所は雒県城内に開設)を分割して徳陽郡を新設し、徳陽県城内に郡役所を開設させた。 以後も、李特は四川省一帯で統一戦争を続け、最終的に成漢国を建国するに至る(304年)。下地図。
しかし、その成漢国も、347年2月、東晋朝により派遣された桓温率いる討伐軍により平定される。その戦闘途上にこの徳陽郡を通過する際、桓温はこの地を愛でて「遂寧」と命名したことから、後に遂寧郡と改名されることとなる。
しかし、間もなく東晋朝も滅亡し、南北朝時代に突入する。ちょうど、南朝の 南宋宰相・劉宋により、遂寧郡は東遂寧郡へ改名される。また、郡都もより北側の 巴興県(今の回馬鎮)へ移転される。また、別に西遂寧郡も設置され、その郡役所は、旧広漢郡の郡都「雒県城」内に開設された。
南朝の梁朝の治世下、東遂寧郡の郡役所が 広漢県城(小漢県城)へ移転される。また、西魏朝の時代には、広漢県は方義県へと改称され、北周朝の時代には徳陽県が廃止されている。
北周朝の時代、方義県は遂州へと改名されるに至る。
そして、南北朝時代を統一した隋朝の時代、遂州総管府が設置され、遂州、梓州、資州、普州の 4州を統括することとされる。下地図。
唐代には遂州都督府へと改名され、同じく 遂州、合州、普州、果州の 4州を管轄した(上地図)。
唐朝末期から五代十国時代にかけては、武信軍節度使が設置され、遂州、昌州、合州、渝州、瀘州の 5州を監督した。
宋代には方義県が小溪県へ、遂州が 梓州路轉運司(省政府)へと改称される(下地図)。
なお、北宋朝 8代目皇帝・徽宗の治世下、この地に極秘の離宮が建設されたことから、後に遂寧都督府へ昇格されることとなる。
モンゴル軍の四川攻撃の折、遂寧城も攻略されている(下地図)。
元王朝の治世時代には、都督府から州へと降格されている。
明代に入り、小溪県が遂寧州へ昇格されるも、すぐに遂寧県に戻される。
続く清代も、遂寧県の行政区が踏襲される。
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