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唐山市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
河北省 唐山市 ~ 人口 755万人、 一人当たり GDP 86,000 元
➠➠➠ 唐山市内の 城跡リスト ➠➠➠
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土垠県城(【2代目】右北平郡城、永済務、薊川県、永済県城、豊潤県城、潤州城)
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徐無県城(北平郡城)
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【2代目】無終県城(玉田県城、薊州城)
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令次県城 三国時代の 公孫讃、韓当の故郷
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海陽県城
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俊靡県城
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昌城県城
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遵化県城(平州売馬塩監)
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石城県城(臨関県城、臨閭県城)
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馬城県城
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楽亭県城
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義豊県城
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滦州城
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韓城
【 唐山市の 歴史 】
唐山市の歴史は長く、早くも 4万年前には人類の生息が確認されているという。
商(殷)王朝時代には孤竹国の、春秋時代期には山戎族の 無終子国(王都は無終城)の、戦国時代期には燕国の版図下に組み込まれた。
春秋時代後期より燕国の勢力下にあったが、戦国時代の一時期、南下してきた東胡族に一帯を占領される。紀元前 283年、燕国の 39代目君主である 昭王(昭襄王)が将軍の秦開を派遣し、東胡族を駆逐すると(下地図)、すぐにその占領地に 5郡を新設し、直接統治に注力することとなる。このとき、無終県(今の 天津市薊県)や、漁陽県(今の 北京市密雲県統軍庄村の南 500 mの南城子。北斉時代に廃城)が新設される。
秦開はその後も、遼西地区に駐留し、燕の長城と通称される大規模な防塁建造を陣頭指揮した。
その燕国を紀元前 225年に滅ぼした秦国は、旧燕国の統治体制をそのまま踏襲し、郡県制が採用された(唐山市エリアは右北平郡と漁陽郡に帰属)。このとき、無終県城は右北平郡の郡都を兼ねた。
紀元前 206年、その秦朝も項羽により滅ぼされる。戦後、項羽は燕の地に勢力を張っていた軍閥の韓広を遼東国王に封じると、韓広は 無終県城(今の 天津市薊県)をその王都に選定している。
前後漢時代から三国時代にかけて、現在の唐山市一帯は、右北平郡下の 無終県(幽州の州都を兼務。今の 天津市薊県)、土垠県(後漢時代に郡都を兼務。今の 唐山市豊潤区銀城鋪郷)、徐無県(今の 唐山市遵化市遵化鎮の東部)、俊靡県(今の 唐山市遵化市遵化鎮の北西部)、および、遼西郡下の海陽県に分かれて統括された(下地図)。
なお、三国時代の呉の最古参の武将である程普は、この右北平郡都の 土垠県(今の 唐山市豊潤区銀城鋪郷)出身である。
また後漢時代より服属と反乱を繰り返してきた烏丸族や鮮卑族らの一部も、当時すでに、右北平郡内に多数、居住していた。後漢末期にこれを束ねる頭領の烏延が、袁紹とその後継者である袁尚の配下に加わり曹操に敵対するも敗北し、遼東太守の公孫康を頼って落ち延びた際、斬首されている(207年)。当地に残った烏丸族や鮮卑族らは、曹操配下の騎馬軍団に組み込まれることとなる。
西晋時代、右北平郡が北平郡へ改名され、同時に、郡役所が徐無県城へ移転される。後に、俊靡県が廃止され、徐無県に吸収合併される。
338年、後趙を建国した石虎が前燕国を攻撃するも大敗している。その戦場は徐無県城一帯とされている。
北魏朝の治世下の 446年、北平郡が廃止されると、郡下の 無終県、土垠県、徐無県、俊靡県、昌城県は、すべて西隣の漁陽郡下へ移籍される(下地図)。
北斉時代の 550年、長らくの戦乱で人口が激減していた土垠県は廃止され(無終県に併合)、県城跡は東北道行台へ降格される。557年より冀州から多くの農民らの強制移住が開始され、地場経済の復興が図られる。同時に、東北道行台が永済務へ改編される。
また、海陽県も 肥如県(隋代に盧龍県へ改名)に吸収合併される(上地図)。
北周朝の治世時代には、徐無県も廃止され、無終県に吸収合併される(引き続き、漁陽郡に帰属)。
隋代の607年、無終県(今の 天津市薊県)が 漁陽県(上で戦国時代期~北斉代に設置されていた漁陽県とは、全く別もの)へ改称される。そのまま漁陽郡の郡都を兼ねることとされた。
隋朝の 最晩年(618年)に全国各地で勃発した農民反乱の一派を率いた高開道は、まず 北平城(旧・徐無県城)を攻撃し、その後に 漁陽郡城(漁陽県城)を占領して、燕王を自称し皇帝に即位する。このとき、その王都が漁陽県城に定められた(下地図)。
唐代の 619年、漁陽郡が薊州へ改編される(州都は漁陽県城のまま)。また同時に、漁陽県から無終県が 分離・新設される。
このときの無終県城は、隋代まで存在した、今の天津市薊県にあった 旧県(このときは、漁陽県城となっている)とは全く別物として、新たに現在の唐山市豊潤区玉田県に築城されており、現存する玉田県の旧市街地の起源となる。
これにより、薊州下には 漁陽県、三河県、無終県(697年、玉田県へ改名)の 3県が配された。下地図。
740年、漁陽県下にあった永済務が薊川県へ一時的に昇格されるも、すぐに元に戻され、玉田県の管轄区へ移籍される。この頃、石城県(今の 唐山市開平区開平鎮)と、馬城県(今の 唐山市滦南県馬城鎮)が新設される。上地図。
時は下って、五代十国時代初期の 後唐朝(923~936年)の治世下、唐代の 742年に設置されていた 平州売馬塩監(今の 唐山市遵化市の中心部)が、遵化県へ昇格される(薊州に帰属)。下の地図の通り、当時、北の契丹国との国境線上に位置し、防衛力強化が図られたわけである。
その後唐を北の 契丹国(後の遼朝)の支援を受けて滅ぼした石敬唐は、すぐに後晋朝を建国させると、契丹国への見返りに、幽雲十六州を献上する(936年)。このとき、今の河北省全土と山西省北部一帯が契丹の版図下に組み込まれ、これにあわせて、唐山市一帯も契丹国の勢力圏に加えられた。下地図。
979年に中原統一を果たし、続いて、北部十六州の再奪取を狙った北宋朝と遼朝の間で、幾度も戦端が開かれることとなる。
こうした中で、遼朝の大将軍であった韓昌が、北宋遠征の途上で、永済務(今の 唐山市豊潤区玉田県)の南 25 kmのあたりにある、はるか四方を見渡せる岩山を目にすると、この地に城塞を築城することを決定する。
外濠が掘削され、兵馬駐屯場が完成される(将軍名から韓城と通称された)も、時代が過ぎ、一帯が戦火から遠ざかると、この地に人々が集まるようになり、かつての外濠は今の護城河となり、平和な農村集落へと変貌していくこととなる。
これが、現在の唐山市豊潤区韓城鎮の起源である。
923年、契丹(遼朝)により、平州(今の 秦皇島市蘆龍県)の一部が分離され、滦州永安軍(平州節度使に帰属)が新設されて以降、現在の唐山市エリアは滦州の管轄下に置かれる。州役所は今の唐山市滦県に開設された。
1122年、金軍は、北宋が攻めあぐねる遼朝の 南京(今の北京市)を易々と占領すると、遼朝からの降将であった張覚を平州長官に任じ、滦州も金朝の版図下に組み込まれることとなる(上地図)。
1123年6月、金軍が南京から撤兵すると、すぐに張覚は金朝を裏切り、北宋に投降してしまう。平州を手に入れた北宋は、その短い統治時代に、石城県を臨関県へ改称している。
しかし、同年 11月、金軍が大挙して南下し、平州を攻略すると、張覚は北宋領へ逃走する。代わりに、張敦国が平州長官に任じられた。怒りが収まらない金朝は北宋にこの騒動の責任者を罰するように要求し、張覚が捕縛・処刑されると、両者の和解が成立した。
翌 1124年6月、金軍は再び北宋になびいた平州を占領し、長官であった張敦国を処刑する。以後、平州は金朝の版図下に永続的に組み込まれることとなる。
1125年、北宋と金朝の連合軍により遼が滅ぼされる。しかし翌年、ついに関係修復が不可能となった北宋と金朝との間に直接的な戦端が開かれ、同年中に華北一帯が金朝に占領されることとなる。下地図。
以後、金朝の統治下で、滦州(今の 唐山市滦県)は節度使へ昇格され、義豊県、石城県、馬城県、楽亭県の 4県、及び、榛子鎮と 新橋鎮(今の 唐山市楽亭県一帯の海岸地区)の 2鎮を統括することとされた。
1187年、永済務が永済県へ昇格される。
1209年、金王朝の 7代目皇帝・金衛紹王(完顔永済)の忌み名とダブるということで、永済県が 豊潤県(県域で豊かな塩田が存在したことから命名)へ改称される。
1213年、モンゴル軍の南下により、滦州はモンゴルに併合される。下地図。
4年後の 1217年、モンゴル軍は鮮卑族の 仲吉(金軍の降将)を滦州節度使に任命する。
1267年には馬城県が、1268年には石城県が廃止され、義豊県に吸収合併される。以後、滦州(今の 唐山市滦県)は義豊県と楽亭県の 2県を統括した。同時期、豊潤県が潤州へ昇格されている。
明代初期の1368年、再び潤州は豊潤県へ降格される。豊潤県を含む、玉田県、遵化県、平谷県の 4県は 薊州(今の 天津市薊県)の管轄下に組み込まれた。下地図。
清代初期も、引き続き、薊州(順天府に帰属)の管轄下には、玉田県、遵化県、豊潤県、平谷県の 4県が配された。上地図。
しかし 1725年、豊潤県は東隣の永平府へ移籍される。また、滦州(今の唐山市滦県)はその 軍事的・政治的な意義が薄れたため、配下に県城を持たない 単体州(散州)へ降格される。
1743年、遵化県域内で皇族の墳墓が建設されたことにより、遵化県が直隷州へ昇格される。このとき、豊潤県は遵化直隷州の管轄下へ移籍されている。同時に、永平府も直隷省永平府へ改編される。
1912年に中華民国が建国され、全国で州制が廃止されるに及び、薊州城が薊県へ、滦州城が滦県へ降格されることとなった。
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