ホーム
中国地図 ~
三国志 遺跡 ~
中国 オススメ
世界の城郭
日本の城
歴史 雑学
城郭都市 概説
当研究会 情報
中国地図 から
≫
内モンゴル自治区 地図
≫
烏海市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
内モンゴル自治区 烏海市 ~ 人口 55万人、 一人当たり GDP 104,000 元
➠➠➠ 烏海市内の 城跡リスト ➠➠➠
▼
クリック
特になし
【 烏海市の 歴史 】
旧石器時代より人類の生息が確認されており、特に紀元前 6世紀から 2世紀にかけては遊牧騎馬民族によるオルドス青銅器文化圏に属していた。
そこへ紀元前 127年、前漢朝 7代目皇帝・武帝が遠征軍を派兵し、この地に割拠していた匈奴族の楼煩王や白羊王らを討伐して、高原一帯を征服する。その範囲は、今の内モンゴル自治区バヤンノール市の烏加河南岸一帯とされており、すなわちオルドス地方全体であった。
以降、この地にも中央集権体制が導入され、郡県制の下、朔方郡が新設される(郡役所は 三封県【現在の麻弥図庫廟古城跡】)。郡下には 10県が配され、このタイミングで今日の烏海市海勃湾地区に沃野県役所が新設されたわけである。
この他、秦代に開設されていた九原郡が五原郡へ改編されている。
7年後の紀元前 120年、沃野県城(今の 海勃湾区北新地にある古城跡)が完成される。また、その翌年に南匈奴の渾邪王が前漢王朝に帰順することになり、その領地だった烏達地区は武威郡に組み込まれることになった。
時は下って後漢末期から 三国時代、晋王朝、五胡十六国時代において、北方の遊牧民族「匈奴、鮮卑、羯、氐、羌」らは「五胡」と呼ばれるようになり、その多くが漢代の長城を越えて南下し、黄河流域まで勢力を伸ばすようになっていた(北半球の寒冷化も影響して、北方民族が退去して南下していた)。
中国大陸が南北朝に分かれ、特に華北地域で十六国が入り乱れて盛衰を繰り返した300年にも及ぶ戦乱の時代、これら北方騎馬民族の「五胡」はますます影響力を増大し、それぞれの民族どうしで抗争を繰り返しつつ、漢人勢力を圧迫していった。そのうちの鮮卑族が打ち立てた北魏王朝が、ついに華北地方を統一するわけである。
しかし、間もなく北魏王朝も東西に分裂してしまい、その西魏王朝を引き継いだ北周朝から権力禅譲させた隋王朝により、ついに中国大陸の再統一が成就されることになる。
この隋王朝の治世時代、現在の烏海市海勃湾地区は突厥の版図下にあり(上地図)、また、同市烏達地区は甘州に分かれて帰属していた(甘州の州都は、永平県城【今の 甘粛省張掖市】)。602年には、粛州(州都は福禄県城 ー 今の 甘粛省酒泉市)の管轄下へ移籍される。
唐代も隋と同じ行政区が踏襲されるわけだが、安史の乱の後、国力を大幅に低下させたため、吐蕃国(チベット族)に数十年間、占領された時期もあった。
唐王朝が滅亡し、再び戦乱の五代十国時代が始まると、党項族の趁宋が台頭し、銀州、夏州、緩州、宥州、静州の 5州を支配する。後を継いだ李彝は、中原の北宋朝と朝貢関係を結び、オルドス地方の大部分を北宋へ割譲するも、その行政権は、引き続き、李彝に与えられていた。上地図。
1038年、党項族の李元昊が北宋朝との朝貢関係を破棄し、西夏国を建国する。
以降、北宋朝を圧迫し続けた西夏国も、モンゴル帝国初代皇帝の チンギス・ハーンによる 4度の侵攻を受け、ついに王都を包囲されて全面降伏に追い込まれる(1224年)。1227年には皇帝も暗殺され、完全に滅亡に追い込まれる。モンゴル軍はそのまま金王朝を攻めて華北地帯まで侵攻するも、江南地帯に立てこもる南宋朝との長期にわたる対決が始まることになる。
フビライ・ハーンによって中国が再統一され元王朝が建国されると、1288年、この烏海市一帯は 寧夏路(役所は今の銀川市に開設)に統括されることとなった。
約 100年続いたモンゴル支配も、明朝により北方へ追い返されると、現在の烏海市一帯は甘州と粛州の外側にあって、対モンゴル戦線の緩衝地帯に位置することとなった。当時、すぐ南の銀川市までは万里の長城が迫り、明朝の守備兵が駐屯していた。
1376年、隴西都司の下に寧夏衛(後に寧夏鎮へ昇格)が開設され、現在の烏海市海勃湾地区を管轄することとされた。下地図。
引き続き、モンゴル軍は中原への南下をねらうも、部族間で内部分裂が続き次第に弱体化していくと、逆に明朝 3代目皇帝の永楽帝は 5度にわたってモンゴル遠征軍を繰り返し、その支配地を北へと拡大させることに成功する。しかし、明軍の勝利も長くは続かず、1449年の土木の変では、親征した明王朝の正統帝自身が捕虜となってしまい、交渉の結果、返還される自体に陥った。
明朝はモンゴル族のさらなる侵攻を恐れるも、モンゴル側の内紛が激化していき、明侵攻は実現されないまま月日が浪費されていった。この間、モンゴル高原は内戦で荒れ果て、多くのモンゴル人が中国側へ避難してくることとなった。特に、モンゴル人の一部族の「オルドス部」の人々が、黄河以南から万里の長城付近まで移住してきたので、現在、この地域は「オルドス高原」と呼ばれるようになったというわけである。
その明朝も内憂外患の中で滅亡に追い込まれると、中国大陸は清王朝による支配がスタートし、この地域の 遊牧民族の首領だった額哲臣は清朝へ帰順し、領土を安堵されることになる。
以降、清朝は漢民族の移住を奨励し、モンゴル族との文化融合を図って統治体制の構築が進められる。また 1649年、清朝はこの地域を 6旗に分割して統治し、現在の烏海市海勃湾地区は「オルドス右翼中旗」に統括されることとなった。
1697年には阿拉善と碩特旗が新設され、烏達市域一帯は前者に属すことになる。このまま清末まで踏襲された。
なお、烏海市の南側に銀川市があり、常にここが行政の中心地であったため、古代より特別、行政庁や城壁都市は設置されてこなかった。このため現在、市内には遺跡らしい遺跡は残っていない。
© 2004-2026 Institute of BTG
|
HOME
|
Contact us