BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2014年4月中旬 『大陸西遊記』~


広東省 陽江市 ~ 人口 275万人、 一人当たり GDP 45,000 元



  陽江城(安寧県城)
  陽西県城
  高凉県城
  思平県城



【 陽江市の 歴史 】

独石仔古人類文化遺跡などの発掘調査から、10000年前より人類の生息が確認されているという。

秦の始皇帝は中原を統一後(紀元前 221年)、さらに嶺南地方の武力併合も進め、紀元前 214年、珠江流域に割拠していた越族などを平定し、翌紀元前 213年にこの地域に中央集権統治体制の導入を図って、桂林郡、南海郡、象郡の 3郡を新設する。このとき、陽江市一帯は南海郡に帰属された。

その秦王朝も紀元前 208年に滅亡し、中原は再び戦乱の世となる。その渦中に乗じ、南海郡軍事長官であった趙佗が嶺南地方に 3郡を武力併合し、南越国を建国する(下地図)。

陽江市

しかし、前漢朝 7代目皇帝・武帝は、北方の匈奴に勝利した後、紀元前 111年に南征軍を派遣し、 南越国を滅亡に追い込む。翌年、前漢王朝によりその旧領下に 9郡が設置される。その際、陽江市一帯は合浦郡高凉県の管轄下に置かれる。当時の行政の中心地は、今の 陽東区大八鎮古城(もしくは 麻汕上塘村)に開設されていた。高凉県は今の陽江市と 江門市 恩平の西部、茂名市 下の 高州、電白、化州、呉川と 羅定の一部をも含む、広大な地域を統括していた。
高凉県は、広東省西部に設置された最古の県城となっている。

後漢末期~三国時代、今の陽江市一帯は孫呉の領土下に組み込まれた。
220年、孫権は合浦郡から高凉県を分離し、新たに高凉郡を新設する。そのまま広州の管轄下に置かれ、郡下には 安寧県(今の 陽江市中心部および東部一帯)、高凉県(今の 陽江市陽東区の北部)、思平県(今の 陽江市陽東区白沙鎮、江城区埠場郷、平巌鎮、陽西県程村鎮近郊の一部)の 3県が配された。このとき、高凉郡として初めて郡都の地位を得ることとなった。


陽江市

時は下って、南北朝時代、この地域の人口増加や南方交易の活性化もあり、行政区の再編が行われる。梁王朝下の 527年、広州から高凉郡が分離され、杜陵郡と 寧康郡、陽春郡らとともに、高州が新設される。

この高州役所は今の 江城(527~649年)に開設され、今の陽江市域および、茂名市の大部分を統括した。また、陽江は郡から州へ昇格され、その下に諸郡や県を統括する中心都市となり、以後、122年間に及び、最盛期を迎えることとなる。

陽江市

南北朝時代を統一した隋朝下の 606年、安寧県と高凉県の一部を分離して、陽江県を新設する。また、あわせて陽春郡の中に陽春県が設置される。

唐王朝・太宗の治世下の 649年、高州から 陽江県、西平県、陽春県、杜陵県らが分離され、 新たに 恩州(州役所は陽江県城内に開設)が設置される。すべて広州都督府の管轄下に置かれた。 このころに、中心都市であった陽江県と陽春県をあわせて、両陽と別称されるようになる。

陽江市

しかし、明代初期の 1368年、初代皇帝の朱元璋により恩州が廃止され、この行政区はすべて 肇慶府 の管轄下に移籍される(上地図)。

清代の 1867年、陽江県は二度、直隷州へ昇格され、陽春県、開平県、恩平県などを統括した。 1870年、陽江直隷州は陽江直隷庁へと改名される(1906年に元の名称に戻される)。

清王朝が滅亡し、中華民国が建国された 1912年、州制と府制が廃止され、陽江県と陽春県となる。その後、中華民人民共和国の時代でも再改編が繰り返され、1988年以降は合併された現在の市制となっている。

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