BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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湖南省 益陽市 ~ 人口 465万人、一人当たり GDP 27,000 元


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  益陽県城
  沅江県城(昭烈古城、劉公城、薬山県城、安楽県城)



益陽市


【 益陽市の 歴史 】

古代より水脈の豊かだった荊州一帯では、5000年前の新石器時代から人類の生息が確認されているという。
現在の益陽市一帯は、春秋戦国時代、一貫して 楚領(紀元前 223年滅亡)に属していた。 当時から河川の合流地点とあり、水上交通の要衝で、ある程度の人口を抱える都市集落であったに違いない。
紀元前 221年に、秦朝により中原が統一された後、中央集権統治の確立が図られ、 全国に郡県制度が導入される。このとき、長沙郡と益陽県が設置される。 その名の由来は、近くに流れる益水の 南側(陰陽でいう「陽(南)」にあたる)にある都市という意味から、「益陽」と名付けられたという。 当時の益陽県は、現在の市域をはるかに上回る、周辺 18,000 km2もの面積の地域を管轄するものとされた。

下記の地図は、後漢時代の荊州中部の様子。現在の湖や河川とは位置や流れが大きく異なっていた。現在の水脈は赤色で、当時のものは青色で明示されている。

益陽市

そして、時は三国時代。
益陽の地は、赤壁の戦い(208年)で曹操の南方進出を阻止した劉備と孫権が、長らく対立してきた荊州帰属問題を一気に表出させた場所である。

211年後半より蜀入りしていた劉備が、214年に龐統を失うも、諸葛亮、張飛、趙雲の援軍で成都を陥落させ、益州占領を果たす。 これを受け、翌 215年、荊州を「一時的に貸していた」呉の孫権から、約束の履行として劉備側に荊州返還要求が出る。 これを劉備が断ると、呂蒙、魯粛、甘寧らが大軍を荊州へ進出させてくる。

呉の呂蒙は真っ先に、荊州南部の 3郡(零陵、桂陽、長沙)を難なく降伏させてしまう。 そして、そのまま北上し、洞庭湖の南の 益陽県城(先に程普が在陣していた)へ軍を進める。

他方、呉挙兵の一報が入った蜀でも、益州成都から劉備自身が 5万の大軍を率いて出陣、 荊州・公安(江陵)までやってくる。軍師孔明は成都に残り、荊州に人脈と土地勘を持つ馬良が帯同された。そして、荊州城(江陵)にて関羽と合流する。蜀呉は一触即発の事態に直面する。

劉備は関羽に兵 3万(関平、周倉も同伴)を与えて、呉軍の主力が陣取る益陽県へ向かわせる。 関羽軍 3万は河を挟んで南側に対陣する。劉備は残りの兵力で、洞庭湖の西湖畔の 公安(江陵城)に駐留し、荊州西部ににらみを利かせた。

同時に、魯粛軍も洞庭湖の東岸の「巴丘(今の岳陽)」にあって、公安に滞在する劉備をけん制しつつ、間もなく、精鋭 5,000を率いて、最前線の益陽県城内に陣取る呉の程普軍と合流する。 南部 3郡平定後の呂蒙と甘寧はやや遅れて到着する。

劉備は荊州南郡を領有してから 5年しか時間がたっていないということもあり、 荊州 3郡の領主たちは呉の軍門に簡単に下ってしまったようである(呉の呂蒙が偽の情報を流して太守らを攪乱)が、 一部の地方豪族は 劉備方、関羽方に味方して、対呉反乱を各地で起こし、呉軍の背後を脅かしたが、順次、呂岱(161~256年)らによって平定されていった。

南側に川を挟んで陣取った関羽軍 3万は、一部の兵を割いて、 上流 5 kmあまり先の 浅瀬(青龍州あたり)より渡河を決行し、 呉陣に夜襲をしかけようと準備するも、魯粛が甘寧軍に夜襲警戒体制を敷かせていることを察知し、夜襲を中止して、自陣にて守備を固めることに専念することとなった。

一方、呉の魯粛は、蜀軍との臨戦態勢を準備し、益陽城県城周辺に土塁要塞を複数、建設していく。後に、その残骸が益陽城の拡張工事に利用されたり、 河川の堤防資材に転用されることになる「魯粛堤」と呼ばれるものである。

また同年、曹操が漢中の張魯討伐遠征を開始し、蜀領内でも魏の勢力南下が浸透しつつあった(漢中から巴郡一帯が魏に寝返る)。 こうした中、蜀側で呉との長期戦を警戒し、平和的解決を図る機運が高まる。呉側でも、魯粛を筆頭に、劉備を対曹操戦に活用するべく、蜀との戦争は避けたいとの思惑があり、平和的解決が図られた。

こうして、益陽県城前の河川敷にて関羽と魯粛との会談が実現する。世に名高い「単刀赴会」である。 わずかな兵士をつれて、敵陣へ乗り込み、会談に臨んだという関羽の豪胆ぶりを評した言葉であるが、実際は、魯粛の説く道理と、 約束を度々反故にしてきた蜀代表の関羽とでは、最初から立場が異なり、ほぼ一方的に魯粛の弁が通ったようである。

小説『三国志演技』では、関羽が夜分、呉主催の宴に出席した後に、「見送ってください」と 魯粛の手を引っ張って、人質として岸部の自軍船まで同伴させ、呉軍の刺客たちに手出しさせなかったというエピソードが出てくる。

益陽市

219年の関羽討伐戦にはじまり、翌年の関羽処刑後、 呉は念願の荊州全土の併合に成功するわけであるが、実際は北部は魏領のまま、 荊州内の蜀領を完全に排除することとなった。荊州を魏呉で分割すべく、呉の孫権は魏の曹操に形上、帰順し、 同時に南北より関羽攻めの敢行を促している(呉の呂蒙はもともと対蜀主戦派であった)。
魏側は、呉の降伏を見せかけのものと認識しており、 呉の皇太子を人質に出すように要求しているが、呉は拒否している。

呉の孫権も 252年に死去し、2代目皇帝・孫亮の治世下の 257年、長沙郡が分割され西部に衡陽郡が新設される。 益陽県はここに帰属された。また益陽県域は大幅に縮小され、新陽県や高平県などが 分離・新設されていく。

時は下って隋代初期の 583年、益陽県は潭州に帰属された。
2代目皇帝の煬帝治世下の 607年、潭州が廃止され、長沙郡が復活される(益陽県もここに入る)。

益陽市

続く唐代の 618、益陽県は再び潭州に帰属されるも、742年に長沙郡に戻される。上地図。
しかし、すぐの 758年には潭州が再設置され、益陽県も引き続き、これに属するものとされた。上地図。

その後、五代十国時代においてもこの行政区が継承されていく。

益陽市

元王朝の 1295年、益陽県は万を超える戸数を有する巨大行政区となっていたため、 益陽州へと昇格される(引き続き、潭州路に帰属)。上地図。

しかし、続く明代初期の 1368年、再び州から益陽県へと降格される(長沙府の管轄下)。
清代の 1636年、湖南省長宝道長沙府下の益陽県となる。

益陽市

清代末期の 1852年10月20日、洪秀全の率いる太平天国軍が長沙府一帯を転戦した折、 益陽県城も陥落し(下地図)、益陽県は得勝県へと改名されている(史上唯一の改名となった)。しかし、太平天国軍が駆逐された後、 すぐに益陽県へと改名され、今日までこの地名が継承されていく。現在の益陽市制は 1994年に施行された。

益陽市


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