ホーム
中国地図 ~
三国志 遺跡 ~
中国 オススメ
世界の城郭
日本の城
城郭都市 概説
歴史 雑学
当研究会 情報
中国地図 から
≫
雲南省 地図
≫
玉渓市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
雲南省 玉渓市 ~ 人口 231万人、 一人当たり GDP 47,000 元
➠➠➠ 玉渓市内の 城跡リスト ➠➠➠
▼
クリック
▼
俞元県城(建寧郡城、新興州城)
【 玉渓市の 歴史 】
戦国七雄の一国であった楚国は庄蹻を大将軍として、長江をさかのぼる形で 四川、雲南方面への遠征軍を発する。
当時、すでに秦国の領土となっていた 巴郡、蜀郡を占領し、紀元前 286年には雲南地方の古滇まで侵攻し武力併合することに成功するも、紀元前 279年に秦国により益州盆地一帯が再奪取されてしまい、庄蹻を総大将とする楚軍は祖国への退路を断たれることになる。こうして紀元前 277年に、庄蹻は滇王を名乗って古滇国を建国することになった。
その後、紀元前 233年に秦により祖国の楚が滅ぼされた後も、秦国に服属することなく古滇国は独立国を貫くこととなる。
続く前漢時代、領土拡張政策を進める 7代目皇帝・武帝により古滇国への征伐軍が発せられ、次々に領土を喪失していく。前漢軍は占領地に対し、順次、中央集権体制の導入を図り、郡県制を構築していく。この一環で現在の玉渓市華寧県一帯は、新設された牂牁郡母単県に統括されることとなった(紀元前 111年)。
そして、ついに紀元前 109年、山間部へ逃避していた滇王は前漢軍に降伏すると、武帝により許されて滇王の金印を下賜され、そのまま領土を安堵される。こうして間接統治体制に組み込まれて、新設されたに益州郡太守を任され、管轄下の 滇池県(今の晋寧)、双柏県(今の易門)、俞元県(今の澄江)など 24県を統括していくこととなる。
三国時代、孔明により俞元県が建寧郡へと昇格される(上地図)。
蜀の滅亡後、 西晋、東晋時代は晋寧郡俞元県と改名される。
南北朝時代、俞元県は寧州建寧郡に引き続き、属した。
隋代に入り、西爨が新設され、寧州総管府の管轄下に入る。
続く唐代には求州となり南寧州都督府に属すも、玄宗皇帝の時代、地元で勃興してきた南詔国に占領される(下地図)。760年、南詔国は俞元県に温富州を設置し、河陽郡の下に帰属させた。このときに、玉渓市が行政都市としての歴史を最初に刻むこととなった。
中原が北宋王朝の治世時代だった頃、この雲南省一帯は大理国の版図下にあり、現在の玉渓市域は温富州休制部の下の河陽郡に統括されていた。
その大理国もモンゴル軍によって滅ぼされると、元王朝と治世下で雲南中路羅伽万戸府が新設され、温富千戸所、部傍千戸所、普舍千戸所、研和千戸所などを管轄することとなった。後に、雲南行中書省澄江路の下で新興州が新設され、休納県、普舍県、研和県を統括するようになる。
明代も元王朝時代の行政区分が踏襲され、 玉渓市一帯は昆陽州の 澄江府と臨安府、および 寧州の元江府に分かれて帰属された。
続く清代も明朝の行政区制を継承し、地名のみ変更となり 雲南府、澄江府、臨安州、新興州などに属した。
近代に入った 1912年、雲南省新興県となる。翌年、休納県が設置され、1917年に玉渓県が設置される。珠江デルタへ注ぐ大河の一つである玉溪から命名されたという。 中華人民共和国の成立以後、周辺の県を併合していき、1983年9月9日に玉渓市制が成立することになる。
なお、この 俞元県城(前漢時代~)、新興州城(元代~)があった地であるが、 今日では完全に城壁も撤去されており、かつての面影もわずかな路地名に残されているのみである。 北門街、南門街、小廟街、南北の公園に堀川跡が残る。
昆明市街地から玉渓市へのアクセス方法だが、高速道路で 1時間半程度、 昆明南駅から玉渓駅まで普通列車だと、1時間20分。
当地は中国共産党の軍歌の作曲家の故郷であり、また中国タバコ産業の中心地で、いろんなブランド品を製造していることでも有名という。
© 2004-2026 Institute of BTG
|
HOME
|
Contact us