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昭通市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
雲南省 昭通市 ~ 人口 522万人、 一人当たり GDP 12,000 元
➠➠➠ 昭通市内の 城跡リスト ➠➠➠
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昭通府新城
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昭通土城(天梯城)
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大関県城
【 昭通市の 歴史 】
類人猿から人類に移行する段階にあたる昭通人と呼ばれる 10万年前の人類化石が発見されているという。
だいたい 1万年~4千年前の 6000年間、この地域に居住した先住民らは早くも磨製石器を使用しており、 さらには製陶技術や 織物、農業、牧畜などの技術もあったとされ、集団で生活を営む定住型環濠集落が形成されていた。
中原が西周末から春秋時代初期に至るころ、杜宇部族が四川盆地へと流入して定住し、この地域に農業を伝えたとされる。その他、さまざまな先進的な農耕社会文明をもたらし、蜀地方の人々を支配するようになり、「望帝」と称して独立王国を成立させる。 これが、古蜀国と呼ばれる地域王権である。
紀元前四世紀ごろ、この古蜀国の国王であった開明五世により、王都が 広都樊鄉(今の雙流県)から成都へ移転される。
しかし、紀元前 316年、秦国の恵王の命により張儀を大将軍とする遠征軍が発せられ、古蜀国は巴国と共に武力制圧されてしまう(下地図)。それでも秦国支配に反対する蜀の先住民らが度々反乱を起こすなど不安定な時代が続き、ついに紀元前 277年、秦国は 蜀郡(郡都は成都城)を開設して直接統治体制を導入していくこととなる。
秦国の孝文王により、紀元前 250年、蜀郡太守に封じられた 李冰(紀元前 302年~前 235年)は、さらなる周辺蛮族の平定の命が下され、軍事的・外交的な攻勢が展開された。ちなみに、この李冰は成都付近に都江堰という治水設備工事を進めた人物で、 その息子の李二郎とともに、四川省内では神様として信仰されるほどである(二王廟)。
紀元前 221年に、秦の始皇帝により中国全土が統一されると、雲南地方へのより強力な侵攻が進められた。周辺蛮族らを服属させつつ、蜀郡からの街道を 建寧(今の曲靖)まで延伸させることに成功する。この道路は、「五尺道」と命名された。こうして中原文化がどんどんと雲南地方へ流入するようになり、その通過点となった今日の昭通地区一帯は「五尺道」の中枢拠点として栄え、雲南地方でも中原文化の先進地区となる。
続く前漢時代初期の頃までは、四川盆地周辺の異民族との交流を排除する政策が採用されていたが、7代目皇帝・武帝により撤廃され、官道「南夷道」が再整備されて南方部族らとの交流が積極的に図られるようになる(紀元前 135年)。あわせて、新たに支配下に入った地域には次々と郡県制が導入されていく。
この時、今の昭通市域に朱提県と朱提郡が設置され(下地図)、前漢朝から役人が派遣されて中央集権体制に組み込まれることになる。
この行政区域は、この前漢時代から唐代の天宝年間まで継承されることとなり、その間、ずっと朱提郡庁と朱提県庁が設置され、ときには犍為郡の南部に合併されて犍為郡の国都尉治所なども開設されていたこともあった。 この 800年間、今の昭通市街区西にある土城跡がその中心部であったわけである。
唐代(上地図)や宋朝時代には、南詔国や大理国という地方豪族国家が成立しており、これに伴い、 昭通地区一帯も 500年近く中原文化圏との交流が絶たれるも、完全に南詔国や大理国文化に染まるわけでもなく、土着文化と移民文化が同化し合った独特な文化圏を形成することになる。
この頃より、朱提県一帯は 鳥蒙(阿猛)部族のテリトリーとして確立されていったようである(下地図)。
しかし、南宋末期にモンゴル軍の侵攻を受け大理国が滅亡すると、モンゴル元王朝の支配下で鳥蒙路が設置される。
清代に入っても明代の制度が継承され、四川省の管轄下に鎮雄土府が設置されていた。
しかし 1727年、地方官の世襲制度が廃止され、中央官僚の派遣制へと改編されるに至り、 鳥蒙府から昭通府へと改名される。 だが、すぐの 1728年2月に鳥蒙府へと再改称され、 行政庁は 土府(窦地甸)の東 8 kmの場所にあった穀倉地帯の永善県の 大関県(ここにも 北門、南門路など旧城跡あり)へ移転される。 1730年7月、鳥蒙府はさらに改名され昭通府となる。あわせて、恩安県を置いて昭通府と併設し、天梯城(今の土城村一帯)を放棄して、 二木那(今の昭通市街地)に新しく建設された城壁都市へ移転される。同年、昭通府は 施東道(道庁は曲靖府に設置)に帰属される。
清代末期の頃には、昭通府は 大関、魯甸の 2庁と、恩安(附郭)、永善、靖江の 3県を管轄する大行政府に成長していた。
なお、この新城跡と土城跡であるが、今でも昭通市市内に残る。まず、1730年築城の昭通府新城の方であるが、これが現在の中心部の旧市街地を形成した。今日でも多くの城門楼閣が残されているものの、城壁は完全に撤去されいる。しかし、市街地のあちこちの路地名にかつての面影が見られておもしろい。北順城路、南順城路、西街、過街楼、北正街、小北門、昭通鎮署衛門、東后街、済川門、趣馬門、託鎮門、清官亭公園、環城北路、環城東路、環城西路。
土城跡は市街地の西側に残る。周囲の地名に色濃く古代の記憶が刻み込まれていた。土城、土城郷、土城城、双門楼、旧圃鎮中学、望城坡。
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