ホーム
中国地図 ~
三国志 遺跡 ~
中国 オススメ
世界の城郭
日本の城
歴史 雑学
城郭都市 概説
当研究会 情報
中国地図 から
≫
四川省 地図
≫
資陽市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
四川省 資陽市 ~ 人口 505万人、 一人当たり GDP 31,000 元
➠➠➠ 資陽市内の 城跡リスト ➠➠➠
▼
クリック
▼
資州城(資県城)
【 資陽市の 歴史 】
この地には、35000年前の資陽人による四川系古代文明の存在が確認されているという。1951年の架橋工事の際、旧石器時代後期の人骨化石が発見されている。
周王朝の治世時代には、蜀国に帰属していたが、秦国の昭襄王が紀元前 301年に遠征軍を派兵して蜀国を滅ぼすと、秦により蜀郡が設置されることとなる。
続く前漢時代の紀元前 135年、資中県が新設される(下地図)。以降、2100年にわたる歴史を紡いでいくこととなる。
また、後漢朝 8代目皇帝・順帝(在位:125~144年)の治世下、資中県から分離する形で漢安県が新設される(下地図)。これは、漢王朝の治世が永遠に続くことを願掛けして命名されたのだった。
三国時代もこのままの地名と統治形態が継承される(上地図)。
その三国時代を統一した西晋王朝も間もなく崩壊すると、華北地方では北方民族による五胡十六国時代の騒乱が続くようになる。他方、四川盆地や華南地方は南朝諸王朝の支配が安定しており、多くの住民らが流入していくることとなった。
下地図は、南北朝時代の 497年当時の様子。この頃、南朝の斉王朝の支配下にあった。
北周時代の 567年、漢安県が中江県へ、資中県が資陽県へ改称される。県城の傍を流れる 資水(現在の沱江)の北側に位置したという地理的背景から命名されたという。
最終的に南北朝時代を統一した隋王朝の治世時代初期の 581年、中江県が内江県へ変更される(下地図)。
この隋代、続く唐代には、簡州と資州に分かれて統括されていた。下地図。
明代に至り、資州は資県と変更される。
続く清代中期の 1727年、隷州から資州へと改名され(下地図)、近代まで至ることになる。
現在、この地も城壁はすべて撤去されていしまっている。街の路地に少しばかりの名残が残る程度である。小北街、大北街、中城街、大東街、上西后街、后西街、西門、崇文街、雁江路(城外東側の堀川に由来)、林苑街(城外東側にあった雑木林に由来)、雁北路など。
© 2004-2026 BT Group Asia
|
HOME
|
Contact us