ホーム
中国地図 ~
三国志 遺跡 ~
中国 オススメ
世界の城郭
日本の城
歴史 雑学
城郭都市 概説
当研究会 情報
中国地図 から
≫
黒竜江省 地図
≫
ハルビン市
≫
道里区 / 道外区 / 南崗区(中心部)
訪問日:20--年--月-旬 『大陸西遊記』~
黒竜江省 ハルビン市 道里/道外/南崗区 ~ 3区人口 331万人、1人当たり GDP 120,000 元 (区平均)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
▼
クリック
▼
黒竜江省博物館、南岡博物館、ハルビン市博物館
▼
果戈里(ゴーゴリ)大街、ゴーゴリ書店、聖アレクセーエフ教会
▼
ロシア人植民都市 ~ 中央大街、聖ソフィア大聖堂、ユダヤ新会堂、防洪紀念塔、兆麟公園
▼
バロック歴史文化地区 ~ 頭道街、二道街、三道街、四道街、、、十七道街、十八道街、イスラム寺院
▼
太陽島の開発と ロシア村(ロシア風情小鎮)、氷まつり
▼
日本軍 七三一部隊展示館
▼
金兀術運糧河(金王朝時代の運河跡)
▼
城子村遺跡と 金王朝初期の 元勲・完顔晏の陵墓遺跡
中国国内で巨大空港ベスト 10に数えられる「ハルビン太平国際空港」に 到着後(日本から直行便で約 3時間)、①号線 空港バスでハルビン鉄道駅前へ移動する(距離 33 km)。 2030年には、市中心部まで直結する地下鉄 ⑨号線が完成予定という。
①号線 空港バス(5:00~24:00運行)運賃 20元
太平国際空港 → 康安路(武警医院) → 通達街 → 安発橋(新陽路安紅街口。ここにも、7天ホテルあり) → ハルビン鉄道駅南広場(月歯街 ー 駅南口の東端。下地図) → 民航大厦
そのまま駅前南広場にある 7天ホテル(南口の西端。ハルビン市南崗区春申街 8号)に 3連泊してみた。下地図。
なお、このホテルから徒歩 1分の場所に、南岡公路客運バスターミナルがある。ここは、黒竜江省綏化市安達市(137 km)や 大慶市(173 km)、ジャムス市(佳木斯市。364 km)、牡丹江市(355 km)、チチハル市克東県(296 km)、吉林省長春市(268 km)、吉林市(273 km)など、 120~400 km強 離れた、東北地方の主要都市間を往来する、中距離バス専用の発着所のようだった
。
この駅南口ホテルの利点は、何よりもハルビン鉄道駅正面というロケーションにある。特に、鉄道を利用して南進する際(
双城区
など)、もしくは、東進する際(
賓県
、
依蘭県
、
ジャムス市
など)に重宝できる。さらに、
ハルビン駅南広場(海城街。下地図)を始発とする 601番路線バスに乗車すると、南の阿城区へのアクセスも便利だった
。また、
北の呼蘭区を訪問する際の、 551番路線バスの発着所も近い
。
これらを先に周遊後、改めて鉄道駅北側へ移動し、道外客運バスターミナル(
綏化市肇東市下の四駅鎮や五駅鎮
へ、
大慶市下の肇源県や肇州鎮
へ)付近の 7天ホテルに投宿し直してもいいだろう。
さて早速、ハルビン市中心部の散策をスタートする。
まずは、同じ駅南口にあった 黒竜江省博物館(南岡区紅軍街 50号)を訪問してみる。続いて、地下鉄線の南側にある、南岡博物館(南岡区聯発街 1号)にも立ち寄ってみた(なお、博物館巡りは雨天か、曇り時がベスト。天気予報との組み合わせも検討すること)。下地図。
その後、博物館前の北京街を南進し、馬家溝河沿いを東進して、児童公園の入口前から、再び南進すると、果戈里(ゴーゴリ)大街に到着した。上地図。
この通りは、ロシア帝国の著名小説家・劇作家 ニコライ・ゴーゴリ(1809~1852年。ウクライナ出身)にちなんで命名された 街道(全長 2.7 km)で、元々は「奮斗路」と称されていた。通り沿いに立地する洋風スタイルの歴史的建物群を活かすべく、地元の南岡区政府により、 2003年5月、街道の全面改修工事が手掛けられ、同時に 果戈里(ゴーゴリ)大街へ改名されたというわけだった。 以降、ロシア風の街並みエリアとして知られるようになり、ハルビン市内でも有名な観光ストリートとなっている。
特に、道沿いにあるクラシックな 書店「果戈里書店(ハルビン市南崗区果戈里大街 164号。営業時間 9:00~21:00)」は有名で、外装と内装のすべてがアンティーク調に統一された様が、ヨーロッパの古い図書館そのもの、と称賛される。上地図。
果戈里(ゴーゴリ)大街をさらに南進すると、革新街との交差点に 聖アレクセーエフ教会(聖・阿列克謝耶夫教堂。上写真)が見えてくる。ロシア人建築家により設計された、典型的な赤褐色のロシア風教会で、 1980年に改修後、現在もカトリック教会として現役、という。
そのままゴーゴリ通りを南進し続け、宣化街沿いの バス停「宣化街」で 25番路線バスに乗車し、バス停「王府井購物中心西門」まで移動する(下地図)。下車後、この 巨大ショッピングモール「王府井購物中心」で、昼食を取ることにした。
食事後、群力第五大道を渡り西進すると、ハルビン市博物館(道里区景江西路 1296号)に行き当たる。また、その北隣には 黒竜江省博物館別館(道里区群力街道景江東路 66号、金河公園内)も立地している。上地図。
博物館見学後、先程の 巨大ショッピングモール「王府井購物中心」北門前にあるバス停から、 61番路線バスに乗車し、東へ戻ることにした。もしくは、金河公園の東側の通りにある バス停「景江東路(群力第四大道路口)」から、97番路線バスでも移動できる。
そのまま旧ロシア人植民地区を訪問すべく、61番路線バスでは「兆麟街(聯升広場。聖ソフィア大聖堂の正面)」で、97番路線バスでは「経緯街(中央大街)」で下車することにした(下地図)。このまま中央大街を散策してみる。このエリアが、 ハルビン市の 観光地&歩行者天国「ロシア歴史地区」というわけだった。
道外客運バスターミナルやバロック歴史地区、巨大イスラム寺院などは、この東端に位置する。下地図。
さて、バス停「兆麟街」で下車後、すぐ正面にある 聖ソフィア大聖堂(ロシア名:聖ソフィスカヤ寺院、中国語名:聖・索菲亜教堂。ハルビン市道里区透籠街 88号)を訪問してみた。下写真左。
このアーチ型ポーチと巨大ドームを特徴とする教会施設は、もともとはロシア人入植地を守備する駐屯兵団のために建立されたもので、ロシア人の退去後も細々と存続されていたが、1997年9月、地元政府により全面改修され、観光スポットとして再スタートしたという(現在は、キリスト教会としては使用されていない)。夜のライトアップも見事で、同じく 1997年に改修された教会前の ソフィア広場(面積 5万 m2)とあわせて、訪問客がとぎれることがないスポットとなっている。下写真左。
そのまま西へ移動し、中央大街を散策してみる(上写真右)。
シベリア鉄道を南進させるべく線路の敷設工事を進める中で、帝政ロシアによって開設されたロシア人入植地のメインストリートとして整備されたもので(1898年)、当初から石畳で設計されていたという。
1986年、その歴史的、景観的価値が評価されて、ハルビン市政府により保護指定を受け、1997年に中国初の步行者天国ストリートへ全面改修された。アジア最長の全長 1,450 m、道幅 21.34 mの歩行者天国通りで、南は経緯街から、北は松花江沿いの防洪紀念塔まで続く。その一部に、幅 10.8 mの石畳み街道が保存される一方、ロシア人入植時代に建てられた建物群が欧州の街並みを彷彿とさせ、中国らしからぬ観光スポットとなっている。
特にスターリン広場には露店市が広がり、ビールをメインとする飲み屋が軒を連ねる。また欧州各国料理屋も多く、外国人観光客が集うエリアとなっている。冬季には氷の彫刻が展示され、夏季とは全くの別世界を現出させるという。
この中央大街のさらに西側には、ユダヤ人地区が残る。現在の通江街は、かつて砲隊街と通称され、帝政ロシアの コロニー(植民都市)時代からユダヤ人の集住地区に定められていた。この時代に建立されたのが 猶太(ユダヤ)旧会館で、共産党時代に入って建設されたものが、ユダヤ新会堂(ハルビン市道里区東風街)である。今でも現役でユダヤ人信者の集いの場となっているものの、内部はユダヤ文化歴史博物館も兼ねている(入場料 25元)。当地に残るユダヤ人らは、しっかり現地に溶け込み、ハルビン市民として生活しているという。
さて、このまま北上し、松江河沿いに至ると、防洪紀念塔が見えてくる(下写真左)。
この高さ 22.5 mの塔は、1958年10月1日に建立されたもので、塔下部の海拔 119.72 mは、1932年に発生した大洪水の水位を、上部の表示海拔標高 120.30 mは、1957年に発生した大洪水時の最高水位を表示しているという。
ついでに松花江沿いを散策しつつ、西にある防洪紀念館も訪問してみた。
再び、中央大街を少し南下し、池まで有する広大な 緑地公園「兆麟公園(面積 6.5万 m2)」に足を延ばしてみる。
ここはロシア人入植時代の 1900年に造園され、中華民国時代の 1926年に道里公園へ改称された、ハルビン市内で最も古い公園という。1946年、日中戦争中の 英雄・李兆麟(1910~1946年。上写真右。学生時代から共産党運動に身を捧げ、満州国時代を通じて、ソ連の支援を得て日本の関東軍と対峙した)を紀念し、兆麟公園へ改称されて今日に至る。
彼は同年 3月9日、ハルビン市内で中国国民党員により射殺されると、同年 8月12日、この道里公園の北部に埋葬されたことから、李兆麟将軍の墓所が建立され(上写真右)、以後、兆麟公園へ改称されたという。
そのまま兆麟公園を南端まで踏破し、森林路沿いを東進すると、鉄道の高架下を通過する。そのまま東進し続けると、バロック歴史文化地区(帝政ロシアのコロニー時代、このエリアはロシア人の支配地に含まれてらず、清朝のテリトリーのままであった。ロシア人との取引をねらう中華系商人らが集うようになって形成された都市で、その建物スタイルは中国風の家屋設計をメインとしつつ、外観が洋風に飾られたことから、中西折衷の建物群となっており、今日まで多くが現存する)に移動する。下地図。
まずは、道外客運バスターミナルを訪問し、バス発着路線を下調べしておいた。下地図。
さらに、南頭道街、南二道街、南三道街、、、、と進んで、南十四道街に至ると(上地図。中華系商人らは転入する度に勝手に家屋を建設したことから、非規則的な町割りとなっている)、巨大なハルビン清真寺が姿を現した。中央政府が史跡指定する歴史的建造物で、その圧倒的な規模は、見る者の度肝を抜く。下写真。
1897年に最初のモスクが建立された後、1904年に第一次改修工事が、1935年に第二次全面改修工事が施され、現在の外観が完成されている。いずれも、当地に集った中華系ムスリム商人の寄付によって 建設、改修、管理されてきたという。1998年、中国のイスラム寺院ベスト 100の一つ選ばれると、訪問客がさらに急増し、2003年に地元政府によって改修工事が加えられ、本殿の外観も一新されることとなった。同時に、周囲の ムスリム(穆斯林)文化広場も整備され、2005年6月に完成している。
本殿の高さは 13 mあり、内部は 500~600人を収容できるスケールを誇り、東北地方最大のイスラム寺院である。本殿両脇には高さ 21.75 mの 尖塔(望月楼)も有し、中国内では珍しい本格的なアラブ風デザインの建物となっている。下写真。
なぜ、ハルビン市に ロシア人コロニー(植民都市)が形成され、
同時に、多くの 異民族、異教徒集団が居住していたのか?
現在のハルビン市中心部に集落が形成され出したのは、金王朝時代と考えられており、
王都・上京会寧府城
の近郊にあって、多くの人やモノの往来が発生する過程で、誕生&拡大されていったと推察される。しかし、1212~1213年のモンゴル族による東北地方侵攻により、このエリアも荒廃して人口が激減する。こうして松花江流域の経済ネットワークが衰退し、この初期集落地も没落してしまったようである。
1400年代に入り、モンゴル族が北方へ駆逐され、代わって明朝が東北地方の支配権を確立すると、水運交易経済が復興をはじめ、再度、交易集落が形成され出したと考えられる。この松花江が 黒竜江(アムール川)と合流し、日本海へと注ぎ出る河口部に、明朝直轄の 行政府「奴爾干都司」が開設されているが、これは水運ネットワークを活かした支配体制の構築、という当時の事情を如実に反映したものであった。
清代に入ると、
寧古塔駐軍(1662年に寧古塔将軍へ改編)
の軍事監管区に組み込まれ、 1650年ごろから、
三姓屯(今の ハルビン市依蘭県)
一帯に農民らが定居するようになり、農地開墾が進められる。
1676年、北部に黒竜江将軍が新設されると、寧古塔将軍と黒竜江将軍の行政区は、松花江の南北で分離される。以降、現在のハルビン市域も、南北に分かれて統括されることとなった。下地図。
この 康熙年間(1662~1723年)に、
寧古塔将軍
の統括下で、現在のハルビン市道外区あたりに 水師営(水軍拠点)を開設されると、この軍事基地の周囲に小規模な集落が形成されるようになる。
1726年、寧古塔将軍の統括下で、
阿勒楚喀協領(後に阿勒楚喀副都統へ昇格)
という地方役所が新設されると、現在のハルビン市一帯はこれに統括される。なお、その役所機関は、廃墟となっていた
旧・上京会寧府城(今の ハルビン市阿城区白城村)
を全面改修して開設されたという。
1757年、寧古塔将軍が吉林将軍へ改編されると、その配下まま阿勒楚喀副都統も踏襲される。
この清代を通じ、当初は保護されていた東北地方の満州族専用地も、順次、他民族へ開放されることとなり、漢民族や朝鮮族などの新移民が入植しつつあった。移民開放は地区ごとに順次進められており、ついに 1814年、現在のハルビン市域(当時は「馬場甸子」と称されていた)でも解禁されると、以降、漢民族系の農民らが流入し、各地に屯田集落が誕生していくこととなる。秦家崗、ハルビン鉄道駅一帯、尤家窩棚、白家窩棚、張老道屯、永発屯、楊馬架子、哈達屯、新発屯、王家店、拉林屯 などの集落地が、その例である。
こうして東北地方の経済開発と人口増加政策を急ピッチで進めた清朝であったが、北から領土浸食を繰り返すロシア帝国の勢力に押される一方の中、
日清戦争
での敗戦を受け、いよいよ欧米列強による領土割譲要求が激しさを増すこととなった。
ロシアは フランス、ドイツを誘って三国干渉を行い、日本による遼東半島割譲を阻止すると(1895年)、この見返りとして「李鴻章-ロバノフ協定」を結び(1896年)、シベリア鉄道の南進と、念願の 不凍港・
旅順(今の 遼寧省大連市)
への接続を推進すべく、東北地方における鉄道敷設権と 管理権(付属地の統治権を含む)などの権益、そして旅順港の租借を清朝に認めさせることとなった(1898年)。
ロシア人は鉄道延伸工事を急ピッチで進める中で、東西に流れる 巨大河川・松花江の渡河ポイントとして、現在のハルビン市を選定する(上地図。当時は「馬場甸子」と称されていた)。これが、後のハルビン市の大発展のきかっけとなるわけだが、この当時は、ちょうど松花江内に点在する複数の中州などが、非常事態時にロシア軍の守備拠点として転用可能と考えた、と推察される。
この過程で、ロシア帝国傘下の東清鉄道建設局が、ウラジオストク(海参崴)からハルビン市を経由し、
旅順港(今の 遼寧省大連市)
へと至る鉄道建設を担当することとなり、あわせて、鉄路沿線、及び駅周辺の広大な土地を「付属地」として租借し管理する役割も担うこととなった。この「付属地」のうち、拠点都市として開発されたのが、松花江南岸の 埠頭区(現在の道里区と南崗区の旧市街地一帯。下地図)で、「松花江市」と命名されることとなる。
この時、ロシア人 入植地「埠頭区(河岸段丘の土地)」のメインストリートとして整備されたのが、現在の中央大街で、その左右に急ピッチで洋館が建設されていったわけである(特に、「新市街」と称された)。当時、建設工事に動員された中国人労働者らが居住したのが、線路反対側(東側)の付属地外の一帯で、まだまだ河川沿いの湿地帯が広がる不毛エリアであった。こうした労働者とあわせて、彼らに給士する飲食屋や物販店、さらに対ロシア人相手の商売を目論む商人らが流入することとなり、バラック風の貧しい住宅地と商業エリアが急ピッチで形成されていくこととなった。これが後に、「崗家店」や「五家子(傅家店)」と呼ばれる集落へ発展していくわけである。下地図。
1903年7月14日、東清鉄道の全線が完成すると、その沿線、駅周辺の附属地に対する統治を強化すべく、ロシアは東清鉄道管理局を設置し、さらに局内に警察部まで創設して、その管轄域各地にも警察支部を配置していくこととなった。同時に、松花江市がハルビン市へ改称される。
翌 1904年10月、東清鉄道局がハルビンを 新市街、新埠頭、旧埠頭、ハルビン旧市街地区の 4区画に区分すると、それぞれに設置された各警察署が実質的な統治を担当するようになる。上地図。
こうしたロシア側の動きに対抗すべく、清朝廷は早くも 1898年、中国人集住地区「傅家店」に濱江庁役所を開設し、主にロシア人居留区の監視を担当させることとした。
西隣のロシア植民都市の建設が急ピッチで進みつつある中、当初は中国人の居住や通行は一切、許可されなかったことから、ハルビンを目指した中国人のほとんどが当地区に流入していた。河畔の湿地を埋め立てては、無秩序に集落を拡張させ、1916年時点ですでに、現在の道外頭道街から十六道街までの全区域が、家屋で埋め尽くされていたという。
こうして無秩序に形成された集落を反映し、今日の地図を見ても、路地が微妙に斜めに走っていたり、各区画の長さがバラバラだったり、やや曲がり気味だったりするわけである(下地図)。これは、まず先に建物が建って、それから道路を整備するという順序で、都市形成が進んだことの証左であった。
20世紀に入り、新市街を中心とするロシア人植民都市がますます発展すると、彼らとの取引を求めてハルビンにやってきた中国人商人の多くも、この傅家店に店を構えることとなり、さまざまな出身者で構成された集落を束ねるべく、 1905年、傅家店弁事公所委員会という自治会を組織する。
あわせて住民らの要望を受けた、吉林将軍の 達桂(?~1920年)と黒竜江巡撫の 程徳全(1860~1930年)は、共同で朝廷へ上奏し、1905年10月末、傅家店に 地方役所「吉林濱江関道(ハルビン関道、道台府とも称された)」の開設許可を得ることとなった。こうして翌 1906年5月、現在の 道外北十八道街建業 1巷 8号院内に施設建設が着手され、1907年9月に完成、正式開設される。以降、主に徴税業務を担当することとなった(吉林省側と黒竜江省側とで取り分が協議された)。
また、この 1907年、濱江庁下で江防同知も新設されると、その 庁署(役所)が現在の道外南十一道街に開設される。こうして清朝側でも、傅家店や 崗家店、四家子などの集落における警察業務が強化されることとなった。
翌 1908年、濱江庁江防同知(濱江庁警察署長官のこと)として着任していた何厚琦が、傅家店の「店」が示す意味が「狭いエリア」だったことから、「店」を「甸」へ変更させる。以降、「傅家甸」へ改称される。
1909年4月、一行政区を司る役所機関としての統治能力を強化すべく、東北三省の総督らの共同上奏により、江防同知が撫民同知へ改編される。以降、民政も担当する、総合的な地方役所の体裁が完備されることとなった。
1911年、さらに双城区北東端に位置していた 61の村落が分離され、濱江庁の行政区に編入されると、一気に管轄区が拡大する(西は苇塘溝 ~ 東は
阿城区
の境まで、南は
双城府
旗屯営地 ~ 北は松花江南岸までという、東西 35 km強、南北 20 km にもなる範囲で、110余りの村落と、 4万余りの農地、5,280戸余りの住民の統括を担当した)。
ロシア管轄下の 道里区、南崗区、香坊区以外、まとめて濱江庁が総合管理することとなったわけである。
これに対し、都市基盤が完成し、十分に居住人口を増やした ロシア植民都市地区(総面積 3,467,344 m2)では、1908年3月1日、中東鉄路管理局の統括下で、ハルビン市議会が開催され議会制度が確立される。続いて 3月11日には、ハルビン市参事会が設立され、実際に行政を執行する市役所業務がスタートされる。それまで、市街地建設と経営を担ってきた東清鉄道会社が、ハルビン市政府へ都市運営の権限と業務を譲渡した瞬間であった。以降、1926年に中華民国政府が行政権を回収するまで、このロシア人入植者による自治体制が継続されることとなる(議会には、一部、新市街地区に居住を許された中国人らも参画していたが、進行や運営はすべてロシア語のみで行われたという)。
しかし 1917年、ロシア革命が勃発し帝政ロシアが崩壊すると、中華民国政府は東清鉄道の付属地における主権回復を主張するようになる。
1920年10月31日、ついに中華民国政府は東省特別区を新設し、ロシア人らが管轄していた鉄道付属地への物理的介入を開始すると、翌 1921年2月5日、東省特別区はハルビン市役所を開設し、中東鉄道沿線上の他の付属地の一括統治を試みるようになる。こうして、他都市と同様、ハルビン市内にあったロシア各行政機関では、まず中華民国国旗の掲揚が義務付けられることとなった。
最終的に 1922年11月24日、東省特別区が行政長官を任命し、東省特別区内の 外交、行政、司法、軍警などの一切の行政執行権の掌握が発表される(翌 1923年3月1日に正式スタート)。
そして 1926年3月30日、この東省特別区行政長官の命令により、ロシア系によって運営されてきたハルビン市議会と参事会の解散が決定され、28年間もの歴史を紡いできたロシア人支配が終わりを告げることとなる。同年 9月、中国人によるハルビン特別市が成立するも、ロシア人入植地の中心だった埠頭区と新市街には、引き続き、多くのロシア人が居留し、一部の自治活動も認められていたという。
1917年のロシア革命をきっかけにロシア人入植地への介入をスタートさせた中華民国政府は、植民都市との境界を撤廃し、域外の中国人らに移動の自由を保証すると、全市民の居住や商売の自由へも範囲が広げられ、植民都市エリアと中華街とが融合が始まる。この過程で一気に市街地が拡張され、次々と新しい道路が整備されていくこととなった。
代表的な中華街地区であった「傅家甸」では、当初はバラックやあばら家風の建物が多かったが、この自由化以降、次々と商家や邸宅への建て替えが進められ、今日のバロック歴史地区へと生まれ変わっていくわけである。この時、中華系の富裕層は、中国の伝統的建築スタイルと西洋風のデザインが混ぜ合わせた建物を好んで建てており、一見すると中華街とは想像もつかない異国情緒漂う街角へ生まれ変わっていく。こうして、西に隣接するロシア新市街とあわせて、「極東の
パリ
」と称される、国際都市が現出されていったわけである。
あわせて、この経済の新興地区には、中国各地に散らばるムスリム系商人らも集い、商売に従事していた。もともと地元ネットワークの強固な、伝統的な県城や地方集落に入り込んで生きることは困難であったが、中国各地からの移民で構成されたニュータウンでは、ムスリム教徒でも比較的公平に市場参入しやすかったわけである。
1932年に満州国が建国されると、翌 1933年7月、東省特別区が北満特別区へ改称される。これに合わせて、もともとのハルビン特別市、東省特別区下のハルビン市、吉林省濱江県下のハルビン市、黒竜江省松浦市政局所下の郊外集落が合併され、さらに、
呼蘭県
下の 10村落、
阿城県
下の 31村落も追加されて、新生「ハルビン特別市」が新設されることとなった。現在のハルビン市の行政区域は、この時に設定されたものを踏襲している。
1937年7月1日、ハルビン特別市がハルビン市へ改編されると、濱江省に帰属する。
1945年8月19日、ソ連軍がハルビン市街地に進駐してくると、すぐに軍政を開始し、ハルビン市臨時治安維持会、濱江省政府、ハルビン市政府を新設するも、同年 11月17日、ソ連はハルビン市政権を中華民国政府へ移譲する。
共産党時代の 1953年8月1日、ハルビン市は中央政府の直轄都市に定められ、東北行政委員会が統括した。翌 1954年8月9日、旧・松江省と黒竜江省が合併し、新・黒竜江省が成立すると、ハルビン市が省都に定められる(以降、中央政府の直轄都市から外れる)。
1900年に、ハルビン市内の鉄道設備が完成し、翌 1901年には、ハルビン松花江大橋(濱洲鉄路橋)の架橋工事も終了すると、ますます多くのロシア人らがハルビン植民都市に居住することとなった。
そして、1917年のロシア革命以降、入植ロシア人らは松花江の 中州島「太陽島」にも居住するようになる。これは、植民都市への介入を強める中華民国政府や流入する中国系住民らから避難する動きでもあった。
以降、島内はロシア人によって開発が進み、レストランや 公園、保養施設などが整備されていき、ハルビン在住のロシア人以外にも、当地を訪れるロシア人訪問者のための避暑保養地としても人気のスポットとなっていく。その名残りから、現在でも「太陽島」は、ロシア村(ロシア風情小鎮)として観光地化されているわけである。下地図。
この「太陽島」は、最低気温が -30 ℃にも至る極寒の地「ハルビン」で毎年、開催される「氷祭り」の 3会場(他に、特別会場の 冰雪大世界、兆麟公園)の一つにもなっている。世界の三大雪祭りと称される、北海道の札幌雪まつり、カナダの ケベック・ウィンターカーニバルと並ぶ、壮大なスケールの冬のイベントである。松花江の氷を使用して彫刻された氷の建築物や人物像などは、夜にはライトアップされ、幻想的な世界を出現させ、人々を魅了することで知られる。
また、ハルビン市中心部から南郊外への小旅行として、下地図内の 3か所にも立ち寄ってみたい。すなわち、侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館、紅旗満族郷、運糧河大橋である。
まず、地下鉄 1号線の最南端にある 終点駅「新疆大街」で下車し、ここから北 200 mに隣接する、侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館を訪問してみた(下地図)。入口のすぐ右側にある展示館の隅から隅まで閲覧し、各施設内をくまなく散策して回ると、優に 3~4時間はかかる規模である。日本軍と 731部隊(細菌戦のための生物兵器の 研究・開発機関)が撤退する際に破壊した工場外観が、そのまま保存されている。
続いて、駅前からタクシーをチャーターし、国道 G102号線沿いの「紅旗満族郷(ハルビン市南岡区)」を訪問してみる(上地図)。国道から北へ路地を入った先に、満州族の集落地が残る。現在、郷全体の居住人口は 2万人弱で、メインは漢民族で、その他に 満州民族、モンゴル族、朝鮮族、シボ族(錫伯族)、イスラム族、チベット族(藏族)、ミャオ族(苗族)、イ族(彝族)、プイ族(布依族)などの少数民族が混在しているという。
紅旗満族郷からタクシーで一直線に南進していると、農園のど真ん中にある ムスリム寺院「紅旗礼拝堂」を過ぎ、五一村を経由して、高速道路「京哈高速」の高架下を東へ向かうと、韓岡銀窝堡、鄭家窝堡、西閔家窝堡、東閔家窝堡などの、古そうな集落地を通過することとなる(この辺りは、
ハルビン市双城区
に帰属する)。
その先で松花路と交差すると、この松花路の道沿いに「運糧河大橋」という陸橋がある(下写真右)。この下に見える池や用水路が、金王朝時代に整備された運河で、「金兀術運河」と称される史跡である。この運河は、必ずしも金朝の 名将・金兀術(?~1148年。オジュ。初代皇帝・アグダの四男)が主導して掘削したものではないが、中国人が尊敬する南宋時代の 英雄・岳飛(1103~1142年)と名勝負を繰り広げた、金王朝の将軍というシンボル性から、彼の名が冠されているわけだった。
これは当時、王都であった
上京会寧府城(今の ハルビン市阿城区白城村)
への水運の利便性を向上させるべく、北に流れる松江河と東の阿什河とを連結されるために整備された運河であった(上地図)。この「金兀術運糧河」は全長約 50 kmにも及び、南東はハルビン市阿城区楊樹郷広慶莊附近から、北西は道里区新農郷西下坎まで続き、ここで松花江と接続されていた。
現在、すでに大部分は耕作地となって埋め立てされてしまっていたり、河道が変更されてしまっているが、今でもだいたい全運河の流れを確認することができる。その他、この金兀術に関連する史跡として、老兀術墳(遼慶陵。
内モンゴル自治区赤峰市
巴林右旗)、金兀術屯糧台(今の
黒竜江省綏化市
北林区四方台鎮)、
金兀術斬將台(初代皇帝アクダの陵墓。今の ハルビン市阿城区白城村)
などが挙げられる。
城子村遺跡 と 金王朝前期を支えた 元勲・完顔晏(1102~1162年)の墓所
この城塞遺跡は、ハルビン市道外区巨源鎮城子村の東部に位置する(松花江の河畔から約 5 km南)。北西側を頂上とする小高い丘の斜面を利用して築城されており、周囲には低湿地帯が広がっていた。かつて、この西側には、松範江という河川が流れていたと考えられており、水運に便利な立地条件だったわけである。
金朝の 王都・上京会寧城
の周囲に配置された衛星集落の一つだったと目され、 1999年1月10日、黒竜江省政府により史跡指定を受けている。
ハルビン市中心部からのアクセスも容易で、355番路線バス(運行時間 6:00~17:00、運賃 4元)一本で訪問できる(下地図)。ただし、バス停「光明村」で下車後、白タクをチャーターして城子村を往復する必要がある。
もしくは、隣の バス停「城子溝橋頭」から、田舎道を徒歩で北上することもできるが、野良犬リスクもあるし、上記の白タク移動がベストだろう。
この北から南へと続く高台の斜面上に建造されていた城塞は、方形に近い形状で、周囲の全長は 1,262 mという小規模なものであった。
北面城壁と東面城壁は比較的良好に保存されているが、南面城壁は断片的に、西面城壁は北半分のみが残存するだけとなっている。それら現存城壁の高さは 2~5 m、頂上部の厚さは 1.5~2 m、底辺部分の厚さは 1~12 mほどで、粘土を何重も塗り重ねた土塁構造であった(各粘土の層は、5~6 mm程度で、厚い部分でも 1 cmほど)。なお、南面城壁の中央部に、瓮城門の遺構も確認できる。
史書によると、城塞の東西にそれぞれ 1か所ずつ城門が設けられていたといい、現在では東城門のみ、その痕跡を確認することができる。また、城壁面に増築されていた馬面跡も 25か所、そして、凹凸壁跡も 2か所が現存する
城内、および周囲の地表には、今でも大量の屋根瓦片などの建築資材が散乱し、さらに 鉄鍋、陶器や茶碗などの生活器具類の破片も発見されている。このうち、白瓷鉢と鉄花瓷罐などは、明らかに金代の遺物という。
そして、この金王朝時代の城塞集落遺跡から約 400 mの地点に、金斉国王・完顔晏の墳墓遺跡が立地する。上写真。
1986年、地元民が農作業中に発見すると、1988年に本格的な発掘調査が行われ、土壁で補強された竪穴の底に(上写真)、外枠が石造りで内部が木製の棺が発見される(下写真左)。副葬品などから金王朝時代の貴人の陵墓であることが確認されると同時に、埋葬された遺体がほぼ完全な状態で発見されたことで(下写真右)、一気に注目を集めた墳墓遺跡であった。
棺内部の四面は、金で刺繍されたシルクで覆われた豪華な意匠で、中央部に老齢な男性と中年女性の夫妻が合葬されていたようである。色鮮やかで華美な衣装も、完全な状態で保存されていたという。下写真右。
この棺の中央部には、墓主の身分である「太尉開府儀同三司事斉国王」の銀製の位牌が掲示されていたことから、史書と照らし合わせた結果、金王朝前半期を支えた 元勲・完顔晏(1102~1162年)の遺体と判明する。彼は 2代目皇帝・太宗、3代目皇帝・熙宗、4代目皇帝・海陵帝、5代目・世宗の四皇帝に仕えた人物で、朝廷内の重鎮として 葛王、宋王、許王、斉王などの王に封じられ、 1162年に太尉にまで昇進した後、同年中に死去した人物であった。
遺体の検査により、頭部が大きめで、身長は 163~165 cm、血液型は AB型、歯科検証から 58~63才辺りに死去したことが判明する。遺体の保存状態も良好で、部分的にヒゲも残っていたという。
また、墓所の埋葬品として、金貨、金制の指輪、金のネックレス、金の耳飾り、双頭ガチョウを模った装飾品など百点あまりが発見され、遊牧系民族の女真族が好んだ華美で濃厚なデザインの陵墓であり、金代を代表する古墳遺跡となっている。
さらに注目を集めたのが、顔を黄色の絹で覆われていた、墓主・完顔晏の傍らに埋葬された女性の実像であった。
女性の遺骸腹部が白く変色していたことから、化学分析の結果、古代の毒薬を服用して死亡したことが明らかとなっており、さらに、遺体の後頭部に鈍器で殴打された痕跡まであり、女真族が遺体を埋葬する際の習慣とした、典型的な手法が用いられていた。こうした痕跡から、この女性は自然死ではなく、老齢な夫の死去と共に殺されて、同時埋葬されていたことが判明する。
女性は 纏足(てんそく。両足をきつく縛って人為的にその発達を抑える風習)されており、遺体検査から、1121年ごろに誕生し、40歳前半で死去していたようである。金王朝の元勲と同葬された状態から、身分相応に高貴な女性と推測されており、その生誕のタイミングと纏足の風習から、彼女は女真族ではなく、北宋朝皇帝・徽宗の 娘・慶福帝姫(趙金姑)とする説が有力である。1127年の靖康の変の際、
王都・開封
から連行された北宋皇室の出身者 12名の女性の一人で、当時、慶福帝姫(趙金姑)はまだ 7歳だったという。
しかし、疑問点としては、東北地方へ連行されてきた直後の趙金姑は、他の女性らと共に金国の 浣衣院(性的な慰安施設)に送られ、そのまま成長して熙宗の後宮へ入れられたことが分かっており、その後、金王朝の皇室や貴族らに与えられて娶られたとされる。であるあらば、趙金姑は熙宗の後宮から放出させる際、完顔晏へ再婚させられた、ということになり、この身分では絶対に正妻の資格は得られないわけで、共に殉葬される資格はないはずである。あくまでも類推の域を出ず、この女性の身分や身元は、いまだに判然としていないという。
なお、そもそもなぜ、完顔晏は金王朝内で元勲としての立場を確立し得ていたのだろうか?
それは、彼の 父・完顔阿離合懣(1070~1119年)の功績によるところが大きかったという。
完顔晏の 父・完顔阿離合懣は女真族の一派を率い、最大部族長だった 完顔アグダ(1068~1123年)に付き従って各地を転戦した、金王朝建国の功労者の一人であった。特に、同族の 族長・完顔蒲家奴と共に、1115年、アグダに皇帝への即位を促し、金王朝建国への道を作った人物としても知られる。そもそも彼は、完顔アクダとは異母弟の間柄であり、最側近であった。特に、文字を持たなかった女真族にあって、完顔阿離合懣の記憶力は群を抜いており、初代皇帝アグダも非常に重宝していた、と史書に言及されている。
1119年に死去すると、アグダは自ら葬式に参列し、大いに慟哭したという。
その次男にあたるのが 完顔晏(本名:斡論。1102~1162年)で、前述の功臣の子とあり、若くして金王朝で重用されることとなった。頭脳明晰、謀略にもたけた人物で、 金朝初期の仮想敵だった 遼王朝(契丹族で構成)の文字を読むことができたという。
初代皇帝アグダが崩御した直後の 1123年ごろ、辺境の烏底族が反乱を起こすと、2代目皇帝・太宗(1075~1135年。完顔晟。アクダの異母弟)に討伐軍を委ねられた、若き 将軍・完顔晏(1102~1162年)は見事に平定戦に成功する。
遠征軍を率いて混同江に至った際、一帯の地形が複雑で、密林地帯が広がっていたことから、伏兵を警戒し、遠征軍各部隊には高所に陣を構築させる。そして日夜、陣太鼓を鳴らして、敵を威嚇しつつ持久戦の構えを示す一方で、船大工らを呼び寄せて、大量の軍船を建造させ、自ら別動隊を率いて密かに渡河し、直接、敵陣を攻撃して潰走させたという。こうして一か月ほどで、反乱の平定に成功すると、その戦功により左監門衛上将軍へ昇進され、広寧尹に任じられる。そのまま中央朝廷へ出仕し、礼両部尚書に配属されることとなった。
1125年に遼王朝を、1127年に北宋朝が滅ぼした金朝は、続いて、中国華南で建国された南宋朝との戦闘に明け暮れる。そうした中、多くの兵力を淮河流域へ派兵し、地元の東北地方やモンゴル地方などの統治が手薄となっていたことから、金朝内の 重鎮・完顔晏が、各地の守備と統治を委ねられることとなった。
1141年、
北京(大定府。今の 内モンゴル自治区赤峰市寧城県)
に駐屯した後、咸平尹へ昇進すると、続いて、
東京(遼陽府。今の 遼寧省遼陽市)
の守備を任された。下地図。
1149年、3代目皇帝・熙宗(1119~1150年。初代皇帝アグダの 長男・繩果の長男)を暗殺し、4代目皇帝に即位した 海陵王(1122~1161年。完顔亮。初代皇帝アグダの 子・遼王斡本の次男)は、同じ皇室出身者や 有力貴族、功臣らを大量処刑し、独裁体制を確立したわけだが、幸いにも、中央政界から遠方の
東京(遼陽府。今の 遼寧省遼陽市)
に駐在し、早くも海陵王に帰順を表明していた完顔晏は粛清を免れ、同年、葛王に封じられると、金朝の中央政界に出仕することとなる。
1152年、海陵王が
燕京(今の北京市)
へ遷都すると、前王都だった
上京(今の ハルビン市阿城区白城村)
の留守を委ねられ、豫王(後に許王へ、さらに越王へ改称)に封じられる(翌 1153年には斉王に封じられる)。こうして、まる 5年もの間、上京に駐在した後、 1157年、
西京(大同府。今の 山西省大同市)
の守備を委ねられる。上地図。
その後間もなく、臨潢尹に任じられ、中央政界に復帰するも、すぐに 上京会寧府城(今の ハルビン市阿城区白城)の留守のため、東北地方へ再赴任することとなった。
1161年、いよいよ海陵王は南宋討伐を目指し、60万と号する大軍勢を南征させるも、慣れない水戦で苦戦する中、モンゴル地方や東北地方の各地で契丹族の反乱が発生する。上京会寧府城にあった完顔晏や、
東京(遼陽府。今の 遼寧省遼陽市)
にあった皇族の 完顔烏禄(後の世宗)などが朝廷へ援軍を要請する中、南宋攻略に固執する海陵王はこれらを無視し、援軍を送らなかったことから、周囲の将軍らの不満は頂点に達し、ついに遠征先の陣中で部下に暗殺されてしまうこととなる。こうして周囲から担ぎ上げられた 完顏雍(完顔烏禄。1123~1189年。初代皇帝アグダの孫)が、5代目皇帝・世宗として即位するわけである。
このクーデータ時、完顔晏の 子・恧里もまた、淮南より帰還する南宋遠征軍に参列していたが、海陵王の暗殺の混乱時、逃走してしまったため、世宗擁立派から危険視された完顔晏も含め、一族郎党が 会寧府長官・高国勝によって一網打尽に逮捕されることとなる。海陵王の治世下、多くの皇族や功臣の一族が次々と粛清されていたが、側近として重用された完顔晏の存在が危険視されたためでもあった。
こうして 5代目皇帝・世宗が即位すると、完顔晏は
王都・燕京(今の北京市)
への召喚命令を受ける。
意を決した完顔晏は一族を連れて朝廷へ参内し、世宗体制への帰順を約束すると、すぐに逮捕を解かれて、左丞相に列せられ広平郡王に封じられる。間もなく、都元帥を兼務することとなるも、その後、老齢を理由に故郷のあった上京城へ帰郷し、同年、死去することとなる。
こうして
上京城
から北東へ 40 kmにある、この場所に立派な陵墓が造営され、手厚く埋葬された、というわけだった。この元勲は死後も、金王朝の領土、そして上京の鬼門である、北東を守護する役割を期待されたのだろうか?
© 2004-2025 Institute of BTG
|
HOME
|
Contact us