『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:2014年6月上旬 『大陸西遊記』~


重慶市渝中区 ~ 市街区人口 810万人(全域内 3,000万人)、一人当たり GDP 43,000 元


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  三国時代の重慶城(江州城)
  重慶府城(江州城)
  江北城
  通遠門(重慶府城の最西端にあった城門)
  東水門と重慶城壁跡
  清末の外国公館地区「領事巷」
  湖広会館
  重慶空港と市内交通モノレール



【 重慶市の歴史 】

200万年前の旧石器时代黎明期に、すでに現在の重慶市巫山県に中国史上最古の人類(巫山人)が生息していたことが確認されているという。そして2~3万年前の旧石器时代後期には、銅梁文化が出現している。

夏、商王朝時代、長江流域の三峡地区に中国で主要な岩塩採掘が始まっている。古代中国において、塩は重要な通貨の一つであり、この岩塩により巫山地区が最も早くに巴国文明を誕生させている。
春秋時代、巴国は、枳(今の重慶涪陵区)、江州(今の重慶渝中区)、墊江(今の重慶合川区)にそれぞれ(予備を含めた)城壁都市を築城している。一方、紀元前689年には、現在の湖南省 荊門市 東南あたりで巴国と楚国が数か月も対峙し激戦を繰り広げるなど、巴国は楚との戦いに明け暮れる歴史となっている。その隙をついて、紀元前316年、秦の恵文王は張儀を派遣し、先に蜀国を、続いて巴国を滅亡させる。その後、江州にて駐屯し、巴国の都城の一つであった所を改修して、巴郡城(江州城)を築城する。この城跡は現在の渝中区長江と嘉陵江との合流地点にある朝天門付近にあった。これが本格的な重慶城の始まりとされる。
後に秦は天下統一後、全国に36郡を設置するが、巴郡はその一つを構成することになる。

前後漢の時代、巴郡は 江州 と呼ばれ、益州刺史部によって管轄されることになる。
後漢末期、益州牧の劉璋は、巴郡太守として龐羲を任命するも、漢中の張魯に備えるべく、安漢の地(現在の 南充市)にて政務を執らせた。
そして、213年からの劉備による蜀攻めの際、江州城の守将「厳顔」は、翌年に荊州より長江をさかのぼってきた先方隊の張飛(荊州軍本体は孔明)に捕獲され、この地にて劉備の軍門に下っている。その後、孔明と張飛の荊州軍本隊は長江を北西へ、趙雲軍は南西方面へ進軍する(趙雲はこの道中に江陽城を陥落させている)。

劉備死後の223年より、対呉の最前線として、李厳は白帝城にて永安守備を任されていたが、呉との和議が成立し、諸葛亮の北伐の空白を補うべく、226年に内政方面へ呼ばれ、江州城(重慶)に駐屯することになる。永安の白帝城には陳到が派遣されたが、引き続き、江州にあった李厳が統括するものとされた。李厳は江州城へ入城後、早速、大規模修繕を開始し、城郭面積をより巨大化させている。 230年には、諸葛亮の第四次北伐に際し、最前線の 漢中 にて内政と食料調達を一手に任される。江州城は李厳の子が統治することになった。しかし、食料輸送での任務不手際と虚言により、李厳は爵位を罷免され、梓潼郡へ流され、234年、この地で没する。


隋代の581年、「渝水(かつての嘉陵江の名称)沿いの城」という意味から、楚州から渝州へ改名される。以後、重慶の地は「渝」と呼ばれるようになった。この呼称は、唐代にも継承される。
宋の時代の1102年、中央政界内で謀反が発覚したのを機に、「渝」の地名が「変革の変」の意味を含むこともあり、渝州から恭州へと変更される。そして1189年、皇帝王室にて「喜び事が重なった」という意味を込めて、恭州は重慶府へと改名された。このときから、重慶の名は800年の歴史を刻むことになる。

南宋の末期、モンゴル軍 が四川省方面へ侵攻してくる。モンゴル遠征軍は閬中、徳陽、資中、遂寧 などの四川省内の重要拠点を陥落させ、ついに、1259年夏、四川成都への侵攻も間近となる。同年10月、重慶から 成都 へ向けられた援軍も撃破される。重慶府と成都府は包囲され、落城寸前にまで追い込まれるも、合川釣魚城 にてモンゴル側の皇帝モンケが病死するに至り、モンゴル軍は撤退する。
態勢を整えたモンゴル軍は再侵攻を開始し、1261年、ついに成都府が陥落する。そのまま南宋の守備軍は重慶府へ撤退する。守将に彭大雅が任命され、重慶府の防御固めが始まる。この時の改修工事の結果、北側は嘉陵江沿岸のぎりぎりまで城壁が拡張されるに至る。さらに、最も弱点となる西側は臨江門と通遠門のラインまで拡大される。このときの大改修により、蜀漢の李厳が修築工事した江州城の2倍の規模にまで城域面積が拡大したという。このときの城域ラインが、明清の時代まで継承されていった。
しかし、1278年正月のモンゴル軍の猛攻撃において、ついに重慶府城も陥落し、多くの市民が虐殺されたという。その翌年、ついに合川釣魚城の守備兵たちも降伏することで、南宋の抵抗は終結することになる(南宋の都・臨安は1276年にすでに陥落)。


かつて重慶市中心部には、本城とは別に2つの出城が設置されていた。南宋末期の対モンゴル戦時に重慶府城の本体を大増築工事した際、 あわせて同時築城された防衛網であった。

重慶市

重慶市
重慶市

重慶市

重慶市

一つは、北の嘉江対岸にある 江北城。もう一つが本城跡の西側に前衛基地としての山城。

前者は、今日現在でも、城壁跡と城門跡が保存されていた(南東部分のみ)。あとは、写真の通り、大橋建設や文化会館建設などで撤去されつつあった。



後者の方は、完全に住宅地内に埋もれてしまっていて、跡形もなかった。住民らに聞いても、そこに山城跡があったことすら関知していない。ちょうど、現在の国際村あたりから山上にかけてあったと考えられる。


そして、重慶本城。かつて江州城と呼ばれていた場所である。


南宋末に、モンゴル軍によって重慶府城は陥落するが、その際、この本城西側の陸地方面から大軍の力で押し切る戦術が取られたようである。写真の「通遠門」あたりでの攻防戦が最も激しかったようだが、突破口を開けられたのもの、やはりここであった。重慶古城の岩盤は岩で固く、対岸からのトンネル削掘による攻撃は不可能、さらに、船からの攻撃も矢や投石などの射程距離で守城側よりも不利であったことは明らかであった。 そこで、唯一、陸地とつながる西側方面から全力で押し切る、という遠方が取られてきたのであろう。モンゴル軍は、降伏した河北地域の中国人兵士らを投入して、中国人どうしによる血で血を洗う戦闘が繰り広げられた。

この地形を見ていて、東ローマ帝国のコンスタンチノープル(イスタンブール)を思い出した。船を陸地から移動させて、内海(金海湾)へ持ち込んだトルコ軍も、結局、陸地方面から毎日のように砲撃を仕掛け、防御壁の修繕を間に合わせなくして、ようやく陸地方面から突破できた次第なのである。まあ、内海方面へ兵士の一部を振り向けさせざるをえなくなった東ローマ帝国軍が徐々に城壁の修繕力を欠落させ、ついに城壁突破された、ということらしいが。

さて、重慶本城の城壁跡であるが、西側の通遠門周辺と、南東側の 東水門 周辺(湖広会館近く)、および、北岸の江北城の向かい側あたりに一部が残存している。近代以前の城壁跡と近代以降の最近の城壁との違いは、城壁面が正方形の石積みであるが、長方形のそれであるか、という形の違いが目安となる。度々、市内で古そうな石組みの石垣などを見かけるが、これは石垣の形で昔のものか、最近のものかが判別できる。正方形のものは圧倒的に少なく、しかも部分的にしか見受けられないのに対し、長方形のものは各所に連続的、ときに断続的に見られる。コンクリートなどなかった時代、もともとが長方形の立体を、正方形面を外側に向けて組み上げた方が、安定的であったに違いない。


また、近代以前の城壁跡は、総じて、巨大な岩盤の上に直接、組み上げられている。客観的に見れば、バランスが悪そうだ。だからこそ、正方形面を外側にして、長い側面を土台的に使用する必要があったのであろう。

東水門あたりから長江河辺まで、3車線の自動車道路が走っていて、物流会社や旅行会社、飲食、スーパーなどが並ぶ地帯である。団体旅行関連の人々の休憩(集合)場所となっている地帯のようだった。また、城壁寄りの住宅街は、古いままの建築群が数多く残り、 いい雰囲気を醸し出している。ここでびっくりしたのが、道路脇で「青空」歯医者を開業している地元の人がいたことだった。 きちんと手を洗っているのだろうか。



また反対側の、本城の北側河畔は遊歩道の整備が急ピッチで行われていた。今も残る、近代化の残存物もそのうち撤去されてしまうのであろうか。かつては「産業都市・重慶」の遺構がそこら中に放置されていた。この場所に、かつての城壁跡もちらほらと残存する。こういう状態の放置状態の草むらが、朝天門~洪崖洞まで続いていた。途中、千斯門かと思われる門跡を見かけてが、たぶん、かつての産業遺跡の鉄道トンネルか工場跡地であろう。

千斯門大橋という河川大橋が開通間近であった。ちょうど、江北城の西側の端から、飲食街「洪崖洞」までをつなぐ自動車&歩行者用の橋であった。また、洪崖洞の地下では、結婚相手募集の掲示板があった。たくさんの父母たちが、子女らの話題で持ちきりだった。写真から読み取れるのは、「洪崖洞」の一番下の階は、ちょうど城壁跡を改造した高さに相当する部分である、ということである。


途中、河川敷まで続く、長い階段を発見。きっと、この際に船の渡し場があったのであろう。



そして、清末に欧米列強が中国大陸への侵略がはじまり、 1876年9月13日、中英間の 煙台条約 により重慶にイギリス領事館が開設される。そして、1890年3月31日には条約改定が施され、重慶港が開港される。イギリスはこの後、宜昌 と重慶との三峡地帯で、汽船フェリー業を開始する。
1891年3月1日、重慶の朝天門付近に、税関が開設される。その後、1896年にはフランス、日本、アメリカも重慶市内に領事館を開設する。 1902年にはロシア、1904年にはドイツも領事館を開設。
下の写真はかつて諸外国の領事館があった一帯。地名も「領事巷」という。




さて、観光地の一つとして、入場料 30元を支払って 湖広会館 へ行ってみた。四川省、重慶が元末、明末の戦乱時代に相当の大虐殺が行われたようで、人口が50~60万人ぐらいしかいなくなっていたという。ある村では1000人に一人、だいたいは 10分の2~4に激減し、住宅や集落跡地は荒れ放題のままで、野生の虎が跋扈しているあり様、という荒廃ぶりの様子が記述されていた。清代初期に大規模は人口移民政策がスタートする。広東省、湖南省、湖北省、福建省などの周辺地域から大規模に農民を移動させ、 1880年代には、2000万人を超えた、という。

重慶市


1891年の重慶地図から推察するに、現在の湖広会館は、横の江南会館を併合して、大きく拡張されたものであることが分かる。


最後に、重慶中心街~重慶空港までの交通ルートであるが、直通モノレール がある(片道6元)。だいたい 40分ぐらい。列車と違い、揺れもなければ、騒音もなく、すばらしい都市交通システムだと感心した。これは日本の円借款で半分賄って設置されたものだという。
そして、重慶空港は全館、無料のWifiあり。中国国内の携帯電話を登録して、パスワードをSMSショートメッセージで受取り、すぐに入力すればその場でネット接続ができる。


飛行機の上から、長江の流れを撮影してみた。

左上は、重慶市の郊外で見つけた、フィリピン財閥のSMグループが開発したであろう、ショッピングモール。同社はフィリピン内でも最大の小売企業グループである。


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