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広元市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
四川省 広元市 ~ 人口 317万人、 一人当たり GDP 22,000 元
➠➠➠ 広元市内の 城跡リスト ➠➠➠
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昭化古城
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剣閣(三国志遺跡)
【 広元市の 歴史 】
旧石器時代より人類の生息が分かっている。
そして 4000年以上前には、奴隷国家として有名な「苴国」が、この中国南西部の広元市一帯で建国されていた。その「苴国」王都遺跡が、現在の広元市の昭化古城内に残っている。
さらに 西周(紀元前 1046年~前 771年)時代、嘉陵江と白龍江が交わる台地上に、巴、蜀、苴、氐民族らが 奴隷国家「昔阝」を建国していた、とされる。
時は下って 春秋戦国時代(紀元前 770年~前 221年)には、蜀国の版図下にあった。この時代も 葭萌関(今の昭化古城)内に人々が生活していたことが分かっている。当時の四川省地帯において、巴国、蜀国の首都とともに、大都市として栄えていたようである。古くより中原地帯と四川省盆地を結ぶ交通の要衝に位置していたことが、この地を絶え間なく繁栄させていたのだった。
紀元前 316年、秦国の恵文王は「苴国」の残党勢力を駆逐すると、そのまま四川盆地へ侵攻し巴国と蜀国を滅亡に追い込む(下地図)。
以降、秦国はこの広元市一帯に「葭萌県」を新設し、県役所を開設する。
秦国は中原の統一後、全国で街道網を整備する一環で蜀桟道を開通させ、中原との往来をより発達させとようとした。
秦朝の滅亡後、前後漢朝の治世時代も、この行政区がそのまま踏襲される。
そして、三国時代。蜀の地を支配した劉備は、曹操の勢力下に入った 漢中郡、巴西郡、巴東郡を奪取すべく、この広元市の山岳地帯一帯で魏軍と激戦を繰り広げることになる。特に、張飛と魏延の率いる蜀軍と魏軍の張郃との激闘は 有名(
巴中市ページ
を参照)。
最終的に曹操軍を漢中から駆逐し蜀漢(221~263年)を建国すると、漢寿県を新設し、その県役所を現在の広元市中心部に開設する。
263年、蜀漢を滅ぼすべく侵攻してきた魏軍を迎え撃つべく、姜維ら蜀の主力部隊が立てこもった剣閣は、ここから南へ 50 kmに位置していた。下地図。
蜀漢を滅ぼした魏も、司馬炎により権力を簒奪されて滅亡すると、西晋朝が建国される。このタイミングで、漢寿県は晋寿県へと改名されることとなった。
その後、東晋朝の治世時代には、晋寿県は益昌県、さらに益昌郡へと改称されていく。その県役所と郡役所は、今の昭化鎮にある昭化古城内に開設されていた。このまま名称や行政区は変われど、隋代、唐代まで継承されていく。下地図。
そして、唐朝滅亡後の五代十国時代、今の広元市の旧市街地区に 県城、州役所、軍隊駐留地が再び移転されてくる。
宋代には主に軍駐留地となり、元代に「広大な領土を持つ元帝国」という意味から、「広元」県の地名が初めて、歴史に登場することとなった。
明代には一時期、州を統括する広元府へと昇格されるも、後に再び広元県へ降格されている。
以降、そのまま清代、近代へと継承されている。
かつては、軍駐留地として大規模な軍事施設が構築されていたと推察される、この地も、 現在は城壁はすべて撤去されていしまっている。街の路地に少しばかりの名残が残る程度である。北街、大西街、東街、小西街、南街、打鉄街、西門、朝天門、煙波街、古渡路。
この街は、三国志の蜀の時代、前線の漢中と 首都・成都との間に位置し、多くの重要人物らが足跡を残した場所であり、 これらにちなんだ見どころが満載である。姜維城、鐘会土塁、関索城、姜維墓、姜維祠、費禕墓、鄧艾父子の墓、 鮑三娘墓、翠雲廊、張飛廟、関羽廟、武侯祠、籌筆驛、明月峡、戦勝壩、葭萌関、天雄関、白水関、石門関、北雄関、 摩天峰山脈、孔明碑 など。
広元市は、中国の核開発基地の一つとして、プルトニウムを扱う工場がたくさん集積されていることでも有名だ。
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