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広西チワン族自治区 地図
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賀州市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
広西チワン族自治区 賀州市 ~ 人口 224万人、一人当たり GDP 23,000 元
➠➠➠ 賀州市内の 城跡リスト ➠➠➠
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八歩街道県城
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臨賀県城
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臨賀県城
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封陽県城
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信都県城
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建興県城
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興安県城
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桂嶺県城
【 賀州市の 歴史 】
春秋戦国時代は百越の地と呼ばれ、蛮族地域として中原より蔑まれた嶺南一帯も、中原を統一した秦の始皇帝により、武力進攻が進められることとなる。紀元前 219年に始まった秦軍の侵攻作戦は 5年後の紀元前 214年にようやく終結し、嶺南地方の武力併合が完成する。
その翌年、このエリアに 桂林郡、象郡、南海郡の 3郡が新設され、郡県制による中央集権統治体制が導入される。このとき、現在の賀州市域は 南海郡(郡役所は 番禺城【現在の広州市】に開設され、番禺県、龍川県、博羅県、四会県の 4県を統括した)に帰属されることとなった。
その秦国による全国統治も長くは続かず、中原は再び戦乱の世となる。 このどさくさの中、嶺南地方の 3郡を武力併合した趙佗により南越国が建国される(下地図)。
しかし、その南越国も紀元前 111年に、前漢朝 7代目皇帝・武帝により滅亡に追い込まれると、その旧領は 9つに分けられ、9郡が新設される。
この時、現在の賀州市北部と昭平県一帯は蒼梧郡下の臨賀県に統括されることとなった(下地図)。 その県役所は今の賀州市賀街鎮内に開設されていた。
以後、前後漢時代を通じて、交州の州都を務めた 広信県城(今の梧州市中心部)に地理的に近かったこともあり、重要な衛生都市の一つとして成長していく。
時は三国時代。
208年末の赤壁の合戦後、江南地帯での呉の孫権の勢力が強大化し、ついに華南地方への拡大が図られて、歩騭を総大将とする南征軍が発せられる。当時、魏の曹操に帰順していた 交阯太守(交州下の七郡を統括)士燮は、この呉軍に早々に降伏してしまうのだった。
直後、交州役所は広信城から南海郡 番禺城(今の 広州市)へ移転される 。
士燮はそのまま交阯支配を追認されるも、226年に 90歳で死去すると、呉の孫権はその勢力簒奪に乗り出し、息子たちの反乱を煽って逆賊として武力討伐し、嶺南地方を直接支配下に収めることに成功する。同年、呉は士燮一族の権力基盤であった蒼梧郡を分割する形で、臨賀郡を新設し、臨賀県城内に郡役所を併設させる(後に荊州へ移籍される。下地図)。
時は下って南北朝時代、宋王朝も末期となった 470年、臨賀郡が臨慶国へと改編され、臨賀県城が国都に定められる。
続く斉王朝の治世下の 480年、再び臨賀郡へ戻される(引き続き、郡都は臨賀県城)。上地図。
南北朝時代を統一した隋王朝の治世時代初期の 589年、郡制が廃止され臨賀郡は賀州となる(引き続き、州都は臨賀県城)。 607年には州制度も廃止され、賀州県となる。
続く唐代初期の 621年、賀州と臨賀県が設置され、臨賀県城に両行政庁が併設される。
玄宗皇帝時代の 724年、州制度が廃止され、臨賀郡が復活する(上地図)。 758年、粛宗帝の時代、再び郡制度から州制度へ改定され、賀州と改名される。引き続き、臨賀県城に州役所が置かれた。
時はさらに下って明代初期の 1377年、賀州は県へと降格され、臨賀県は平楽府下の賀県へと改称される(下地図)。
清代もこの明代の行政区が継承される(下地図)。
中華民国時代の 1914年、道察使が新設され、1917年に桂林道の管轄下に組み込まれる。
共産党中国時代の 1952年9月、県役所が賀街鎮から現在の賀州市中心部である八歩区へ移転される。 1958年7月に一時的に梧州市に併合されるも、2002年11月2日に再分離され、現在の賀州市制がスタートし今日に至っている。
なお、賀州市街地(八歩区)であるが、 西側の八歩街道地区は、かつて八歩鎮と呼ばれていた場所で、ここに 八歩街道県城(役所)が開設されていたようである。 しかし、その城跡は全く残されていない。路地名にわずかな記憶として、油行巷、西約街、城西路、西南一巷、東門茶館 などが残る程度である。
なお、かつてあった臨賀郡下には、臨賀県(今の賀街鎮)、封陽県(今の舗門鎮)、信都県(今の信都鎮)、建興県、興安県、桂嶺県(今の桂嶺鎮)、 八歩街道県(今の八歩区八歩鎮)の 7県が設置されていた。
特に前漢時代より、この地域の行政・経済の中心都市であり続けた賀街鎮にある臨賀県城跡であるが、今日では、かつての栄華が信じられないほどの寂れた地方都市に成り果ててしまっている。城壁も城門跡もすべて存在せず、わずかな地名にかつての名残が感じられるのみである。河西村、河東村、賀街大橋(かつて周囲に堀川が巡らされていた)、八步区賀街鎮城厢学校 など。
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