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広西チワン族自治区 地図
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欽州市
訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~
広西チワン族自治区 欽州市 ~ 人口 381万人、一人当たり GDP 16,000 元
➠➠➠ 欽州市内の 城跡リスト ➠➠➠
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欽州城(安州城、宋寿県城)
【 欽州市の 歴史 】
現在の欽州市一帯には、すでに新石器時代より人類の生息が確認されているという。
春秋戦国時代においては「百越の地」に属し、中原を統一した秦の始皇帝によって紀元前 214年、この嶺南地方も併合されるに至り、史上初めて中原王朝の支配下に組み込まれることとなる。
この新占領地に 南海郡、桂林郡、象郡が新設され、中央集権支配が開始される。当時、欽州市エリアは象郡に属されることとなった。
前漢~ 後漢、三国時代そして東晋朝の時代に至るまでは、交州合浦郡 合浦県(県城は今の 欽州市浦北県旧市街地に設置されていた)に属された(下地図)。
三国時代は呉の支配地となっていた。226年の士徽一族の討伐戦の際、呉将・呂岱がこの県城に立ち寄って、交州長官となっていた戴良と合流している。
南北朝時代、宋朝、斉朝の治世下で合浦郡合浦県が分離されて、西側に宋寿郡宋寿県が新設される(共に交州に帰属)。下地図。
続く梁朝と陳朝の治世時代、新設された安州の管轄下で宋京郡安京県が踏襲される。下地図。
隋代初期の 598年、安州が欽州へ改名される。付近を流れる 河川「欽江」から命名されたとも、「欽順の義」という語句から命名されたとも言われる。
しかし、すぐ後の 607年、寧越郡へと再変更されることとなった。
唐代初期の 622年、寧越郡は欽州総管府へと改編されるなど、以後も唐代を通じて度重なる改名や組織変更が繰り返される。
北宋朝および南宋朝、そして元朝の治世時代、欽州路となる。
続く明代初期の 1369年、欽州路が欽州府へと改編される。 1375年には、欽州府から欽州へと降格され、翌 1376年にはさらに欽州県へと再降格された。しかし、1381年には再び欽州へと昇格される。この間、一貫して雷州府の廉州に属した(下地図)。
さらに清代に入っても、明代の行政区が踏襲される(上地図)。
清朝滅亡後の中華民国時代、欽州県となり、広東省欽廉専署の下に帰属される。
1951年に一時的に広西省へ移籍されるも、1955年、再び広東省に編入される。そして、1965年7月に広西チワン族自治区の成立に合わせて、ここに再編入され今日に至る。
なお、南北朝時代に開設された 宋寿県城(安州城、欽州城)跡であるが、現在、完全に城壁、城門は撤去されてしまっており、全く何も残されていない。路地名にわずかな記憶が感じられるのみである。北営、西営、城西街、西門街、一馬路、二馬路、三馬路、四馬路、五馬路 など。
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