ホーム
中国地図 ~
三国志 遺跡 ~
中国 オススメ
世界の城郭
日本の城
歴史 雑学
城郭都市 概説
当研究会 情報
中国地図 から
≫
広東省 地図
≫
汕尾市
≫
陸豊市 大安鎮 ①
≫
大安鎮 ②
訪問日:2017年 4月下旬 『大陸西遊記』~
広東省 汕尾市 陸豊市 大安鎮 ① ~ 鎮内人口 3.5万人、 一人当たり GDP 27,000 元 (汕尾市全体)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
▼
クリック
▼
大安鎮の豊かな 自然環境 ~ 飲料水のための 政府保護区域
▼
南渓古鎮の 入り口
▼
南渓古鎮 北門跡
▼
南渓古鎮内に 現存する圧巻の 古民家群(古城中央部ほど裕福で、外周エリアほど貧しい)
▼
石塞村の入り口 と 田舎町の銀行取次代理店
▼
石塞城(石城)北門
▼
石塞城の内部に広がる 古民家群 と 石の空間
▼
石塞城 南門
▼
石塞城 南門外の甕城門 と その楼閣
▼
石塞城内の 2つのメインストリート
▼
石塞城 西門(正門)と 黄氏宗廟
▼
石塞城の城壁の 外周に均等に敷設されていた 補強壁
▼
【豆知識】石塞城(石城) ■■■
▼
陸安県城(安陸県城、大安屯)
▼
軍塞城(軍塞村)
▼
卒業するならココ、陸軍小学校!
投宿していた
陸豊市
総合バスターミナル横の 7天酒店から三輪タクシーに乗る。
大安村へ行きたい旨を伝えると、北堤路と龍山路の交差点で降ろされた(下写真左は、この交差点にある龍山橋上から市街地のある南側を見たもの。今から、この螺河を北へ遡る)。この橋の脇で通過する路線バス ⑧に乗るか、陸河行のバスで途中下車するかの方法がある、ということだった。
とりあえず、分かりやすい路線バス ⑧を待つことにする。待っている途中、路駐客待ちのタクシー運転手が話かけてくる。大安鎮まで片道 50元でどうだ?という。
そうこうしているうちに、路線バス ⑧が通りかかったので、飛び乗った(5元、30分弱)。バスは10~15分に
一本
、運行されている様子だった。
バスは市街地を抜けると、ひたすら農村風景の中をぶっ飛ばす。途中に見える山々は、すべてハゲ山で、かなり間伐された状態の植樹が目立った。まっすぐに立つ、その木々は杉のような直線型の樹木であったが、厳密には杉のように背の高いものではなかった。
そして例外なく、山裾部分には、無数の墓地が並んでいた。
乗車から25分が過ぎたころ、走行中の幹線道路 S 240沿いに住宅地が迫ってくるようになる(それまでは、田園地帯の彼方に集落地が点在していた。上写真右)。この田園地帯は、天然飲料水を精製する地区として政府指定されているようで(道路脇に飲料水指定地区という看板があった。上写真右)、工場らしきものは一切ない、田園とはげ山だけだけが存在する田舎風景が一面に広がっていた。
そして、たまたま乗客が乗り込んできた交差点に、「石塞村、
南渓村
」という案内石板が目に飛び込んできたので(下写真)、すぐに下車を 決行する。
もし、乗客が乗り込んでこなかったら、間違いなくスルーしていた交差点だったので、ラッキーだった。
【
南渓古塞
】
ここの交差点のすぐ後方に南渓古塞という、里城レベルの古城村が存在する。
現在、かつての城壁は完全に喪失しており、きれいな鉄筋コンクリート製の城門と城壁が復元されて(下写真左は、バス停に最も近い北門)、その中に旧家屋がびっしり軒を連ねていた。
上写真右は、村の中で比較的新しい建物であった「黄氏宗祀」廟。この村は黄姓の客家集団の村落だったと思われる。
北門に入ったすぐ脇に城内唯一の売店があった(下写真中央のピンクテント)。地元の子供たちの遊び場になっているようだった(下写真は北門を東側内部から撮影したもの)。
この南渓古塞の旧家屋群のうち、
99%
は無人状態だった。
下写真は、西門の楼閣上から南門エリアを眺めたもの。コンクリート製で復元されていた城門は、すべて自由に上がれる。
古城内は空中に電線が張り巡らされており、城門楼閣上からの撮影には向かない環境だった。
下写真は、南門から西門、北門一帯を眺めたもの。
北門外には 3~4階建てのコンクリート建築群が建ち並び(下写真の右奥)、ここ十数年で城外へと住宅開発が進んだ様子が伺える。その手前に、北門の城門楼閣が見える。だいたい古城全体の広さが伝わってくると思う。
古城内の家屋は実に整然と立ち並んでいた(下写真)。全体の印象としては、古城中央部に立派な屋敷エリア、城門附近は小さな家屋エリアと、明らかに家計の経済力に差があったことが認められた。
無人の路地には鶏が 20羽ほど、放し飼いにされていた。
東門も探してみたが、これは復元されてないようだった。幹線道路 S240に面する西門、南門、北門のみが復元されていたのだろう。
下写真は、城内を 北➡西➡南➡東と一周して、北門へ戻ってきたときの様子。
城門附近や城壁沿いには、比較的に粗末な家屋が立ち並ぶ。
秦、漢代の県城レベルや、明、清代の鎮城や郷城レベルなど、小規模な城塞集落の実態をイメージする上で、非常に価値のある生ける証人だった。
さて、南渓古塞の北門から出て、再び、バス停留所まで戻り、今度は東へ向けて 10~15分ほど歩く。用水路と田園風景、そして墓地が続く田舎道で、空気も非常によかった。下写真。
【
大安石寨(石城)
】
田舎道の右手に集落地が見えてくる。村入り口の交差点エリアに着くと、「石塞村 役場センター」があった(下写真左)。
その横には、町工場が中国農業銀行の入出金窓口を営んでいます!という免許証を貼り付けていた(下写真右)。
汕尾市
捷勝鎮
でも見かけたが、こういった地方の田舎町では銀行の ATMや支店がない。そのため、メインストリートの出入り口に位置する小規模商店や町工場が銀行と代理店契約を結んで、入出金の取次を行っているようだった。
さて
、ここから路地を進んでいく。
何人かの人に古城の場所を訪ねると、間もなく到着できた。そもそも、それほど路地の本数もないので、とりあえず、奥へ進めば、行きつけるようだった。
この城は、岩山上に築城された要塞で、すでに唐代から簡易な土壁による村要塞が設けられていたようであるが、本格的な築城工事は明末清初の混乱期に実施されたそうである。
北門から入ってみる。
下写真左は、
北門
を内部から見たもの。入り口部分だけ極端に狭められていることが分かる。
下写真右は、北門に入ったばかりのポイント。真正面に、集合住宅街(日本で言うところの長屋)らしきエリアがあった(写真右手の小門内)。
下写真は、三街六巷の長屋エリアを覗いたもの。小さな古民家が続いていた。誰も住んでいない。
城内は東通りと西通りの 2本の路地で南北に貫通されていた。とりあえず、東回りルートで内部を散策していると、住民に出くわした(下写真)。古城内には街灯もなく、夜は真っ暗闇になるだろうに。
さらに、無人の城内を進む。古城自体が崖山の斜面上に築城されているので、坂道と家の軒先の構造が非常に特徴的だった。
「アリの巣」のイメージ通り、城内は細かい路地と家屋が密集する、枝分かれがさらに枝分かれを生む 複雑怪奇な居住区構成となっていた。
東回りルートを登り切ったところに、南門が現れる(
下写真
)。城内の最も高台に位置する。
下写真は、南門上から東回りルートを見返したもの。
この南門の城門楼閣は未だに健在であった。上の写真の通り、城門楼閣まで登れる階段があったが、中には入れなかった。
しかし
、この南門は唯一、甕城を有しており、二重の城門が設置されていたわけだが、その甕城部分の楼閣には上がることができた。内部は地元神を祭る廟所になっていた(下写真)。
木製の古い楼閣で、よくぞここまで大事に使用してくれたと、地元民・黄一族に感謝したい。
下写真は南門の甕城とその城門楼閣を外から見たもの。この甕城は、現在の海豊県、陸豊県内で残る唯一の遺跡という。
清代には、城塞は西、南、北の三城門を有したが、この南門のみ瓮城で補強されていたという。 甕城自体の入り口は東向きで、直角に折れ曲がって南門に入る設計だった。
下写真は、この甕城の楼閣から城外を眺めたもの(ちょうど、古城の東面にあたる)。遠くに山々が囲むエリアに豊かな平野部が広がっており、一面は水田となっていた。
特に感じ入ったのは、甕城の城門部分に、上下左右の石材側面に残された扉用の穴であった(下写真右)。左右の穴には門ドアを固定する横板の支えがあり、内側へ左右の門が空くスタイルで、鍵は上下の木材を固定することで、施錠していたようである。ここまで生々しく城門の扉穴が残されているケースも珍しい。
再び
、南門から城内に戻り、今度は西回りルートを散策してみた。
城内はほぼ 99%が空き家で廃屋なのだが、筆者が訪問した当日、2名ほど住人と思わしき老人たちと会った。水は井戸水を使用されているのだろう。
まさに、「石城」という名が、そのまま相応する城内の雰囲気。
そして、西回りルートの途中に、
西門(正門)
とその入り口正面に立地する、黄氏宗廟が堂々たる姿で鎮座されていた(下写真左)。
ここには唐代より、石氏、陳氏、謝氏の3宗族が共同で集落地を形成していたが、明末に黄氏の宗族らが入居してくると、最終的に清代後期 1800年ごろに石氏、陳氏、謝氏は転出に追い込まれ、黄氏だけの集落地となったという歴史を物語る、勝者の風格漂う宗廟であった。
西側の 城門(正門)は客家の鼓楼に近い建築スタイルで、城門楼閣の二階部分が曲線形で広いスペースが設けられていたことが分かる。下写真。
上写真右は、西門(正門)を内部から見たもの。
下写真
の土台部分に見られるように、西門の城壁外面の一部がコンクリート補強されてしまっているが、大部分は清代からの石積み城壁だけとなっており、数百年前のスタイルで、自然素材だけを使用した手作りの古城時代へ思いを馳せるいい材料を提供してくれていた。
また、西門の外面の城壁沿いに残る三角形の土壁が気になった。上写真の左下の突起物。
これは、かつて古城時代、土台の石積み城壁が今日のようにコンクリート補強されていなかったわけで、(水圧や土圧で)外側への崩落を防ぐために、城壁の外面に等間隔で三角形の土台が設けられていたのだろうと推察できた(ちょうど、
日本の鳥取城の天球丸に類似
)。
下写真左は北門、下写真は南門の周辺で、同様に三角形の土台が配されていた。
現在、西門の前には 小学校、中学校と 池(四水帰湖)があった。下写真。
かつて古城時代、住民らは西門からこの池水を組みあげたり、魚を採っていたことであろう。
ちょうど昼休みが終わり、自宅での昼食を終えた生徒たちがスクーターや 自転車、徒歩、親に送ってもらいながら学校へ戻ってきていた(上写真)。
彼らとは逆方向に歩みを進め、そのまま住宅街を抜けていくと、元の石寨村の入り口交差点に戻ってこれた。
なお、中国でもバイク免許は16歳から取得可能と定められているが、田舎エリアでは放任されているようだった。実際、両親らの毎日の送迎や、かなりの距離がある真夏の登下校は生徒に体力の消耗を強いるだけで、学校の教師もその辺の法律運用には目をつむっているという。つまり、少年少女たちは皆、無免許運転ということだった。
石寨城(石城)
石寨城は、別名、石城とも呼ばれ、もともとは 石氏、陳氏、謝氏の三宗族が共同で開いた集落地だった。だいたい唐代初期の 620年前後と考えられている。
四方を山に囲まれた半径 5 km四方の盆地平野の真ん中に位置する、岩石が突起した丘陵部分に築城が 開始される(標高は数十メートルほど)。もともと湾曲して流れる螺河がカーブするポイントに 位置しており、旧街道がすぐ下を経由する街道沿いであったという。
魚型をした小山上に立地されており、当初は土壁の城塞であったが、時とともに 変形し、この岩肌を打ち砕き、石材を採掘して、不規則なだ円形の石積み要塞へ 進化していったようである。
明末の混乱期、黄氏の宗族らも集落地に転入してくる時分に、 本格的な城塞建設が開始される。
内部の総面積は約 37,000 m2あり、城壁の全長は約 700 m、その高さは 10 mあった。 城壁の下半分は不規則な長方形の石材が積み合わされており、その高さは約 3 mという。
また、城壁は石材、粘土、土砂で構成されており、上には凹凸壁が 4 m間隔で 設けられていた。この上半分と下半分は城内の標高差を表しており、 石積み壁が城内の地上部分にあたり、土壁部分が城内から見た外壁の高さに相当した。
城内と外壁の間には幅 2 mの城道が通っており、城壁上には馬面と角楼が増築され、 外壁には所々に矢狭間口が設けられていた。
清代を通じ、徐々に黄氏の勢力が増大し、清代後期 1800年ごろには 石氏、陳氏、謝氏を転出に追い込み、黄氏だけの集落地となったという。先の 3氏は、東へ 2 kmの地点に、和安里(別名:新寨)いう村を立てて、新たな城塞集落を建造したという。
現在、当地には黄氏姓の人口 8,000人余りが残っており、福建省の方言である閩南語を主言語としている。
石氏、謝氏、陳氏の3宗家時代には、それぞれの家 系から 進士(中央礼部が行う北京での最終試験合格者)を一名ずつ輩出していたという。清代に黄氏も加わると、 この黄氏一族からも進士を 1名を輩出した他、挙人(3年に一度、各省都で行われた地方レベル試験合格者) 7名、貢生(地方学校から国子監へ進学を許可された者) 36名、秀才(地方学校生の入学者) 数百名をも輩出しており、その勤勉さが他の宗族らを圧倒する要因であったのかもしれないと思えなくもない。
2007年6月から史跡指定の動きが始まり、翌 2008年12月2日、石寨村は広東省指定の村落遺跡として認定されることとなった。
陸豊市大安鎮 ② ≫≫
© 2004-2025 Institute of BTG
|
HOME
|
Contact us