BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~

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訪問日:2018年 5月下旬 『大陸西遊記』~


浙江省 嘉興市 海塩県 ~ 県内人口 46万人、 一人当たり GDP 100,000 元 (嘉興市 全体)


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  嘉興市中心部から 海塩鎮へ ~ 171番路線バス 14元(90分)
  海塩県バスターミナルから 海塩県城跡の古城地区へ ~ K5番路線バス 2元(15分)
  護城河(北城河)~ かつての北面の掘割跡
  綺園景区公園の一部を構成する独寤園 ~ 蛋浦県と海塩県の県境の 橋「蛋浦橋」跡
  張元済記念博物館 ~ 海塩県が生んだ「近代中国の福沢諭吉」張元済
  【豆知識】張元済の 生涯(1867~1959年) ■■■
  海塩県博物館の展示に見る、三国志エピソード ~ 陸遜、陸績、幹宝の故郷
  三国志遺跡 ~ 江南地方最古の 仏教寺「金粟寺」
  海塩県城跡の古城めぐり路線バス ~ Y8番、Y6番、Y4番
  海塩県城を貫通した 南北水路(塩平塘河)と 東西水路(塩嘉塘河)
  海濱公園内にて修復された 東城門(鎮海門)と 古城マップ
  海塩県下で最古の 寺院・千佛閣(唐代 768年創建) ~ 古城の西郊外で「寺町」を形成
  海塩県中心部 ~ K1バス ~ バス停「塩北橋」 ~ 171番バス ~ 嘉興市街地へ
  海塩県 バス停「塩北橋」 ~ 平湖市行(K167番バス)、乍浦鎮行(K170番バス)
  【豆知識】海塩県城の 歴史 ■■■
  【豆知識】澉浦古鎮(澉浦所城)~ 西面城壁と 西城門、由緒ある路地裏が残る ■■■
  【豆知識】黄湾砲台山 ■■■



ホテル出発後、昨日 同様に 嘉興鉄道駅 前まで移動し、その駅前の城東路を渡って、反対車線で 161番162番、171番路線バス のいずれかの到着を待つことにした。 3分ほどで 171番路線バスが現れた。海塩鎮行だった。
早速、飛び乗る。終点の海塩県までは、14元という。実に 1時間半もの長距離ルートとなった。

海塩県

駅前から紡工路をひたすら南下し、三環東路(国道 07)、長水路(ここまでは、 161番と 162番路線バスも同じバス停を使っており、平湖方面へも同時に移動できるルート。いざとなれば、帰りに途中下車して、反対路線でバスを待つと、そのまま平湖方面への同日訪問も可能)。

新豊鎮から 浄豊路(X104、嘉塩公路)を右折すると、完全に海塩鎮方面だけのバスとなる。
鳳凰路を通過中、 海塩県元通街道で中国屈指の ビールメーカー「華潤雪花啤酒ビール」嘉興工場の 城下町(下地図。西塘橋街の西隣)を通過する。街全体がビールの看板だらけだった。

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そして、海塩鎮(県城があった 旧市街地:武原鎮)に入ると、この道路は新橋北路へと改名される。ここから海興西路を右折し、百尺路沿いを南下して市街地をかするように走り、町はずれの 海塩県バスターミナル(海塩客運中心。下地図)にたどり着いた。1時間半もの長時間乗車だった。バスターミナルで トイレ を使う。

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このバスターミナルから、海塩県内を網羅する路線バスがひっきりなしに発着していた。
到着したばかりで、まだ現地の地名と各路線バスのルートがきちんと把握できず苦労したが、とりあえず目の前で間もなく発車しようとしていた K5番路線バスに乗車してみた(2元)。

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幸運にも無事に旧市街地まで移動でき(上地図の赤ライン)、県博物館の裏手と思われる勤倹北路沿いの バス停「金桶花苑」で下車した。下地図の青ライン。

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少し前進し、城北西路との三差路を東進する。新橋北路との交差点から南へ進路を変えると、いよいよ 凉亭橋 を渡って古城エリアへ入ることとなる。上地図の緑ライン。

この凉亭橋のかかる運河が 護城河(北城河)で、かつての北面の掘割跡である。下写真左。

新橋北路(下写真右)沿いには綺園景区公園(総面積 9,887m)があり、当地第一の観光地になっているエリアだ。

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新橋北路に面して緑地公園「独寤園」があった(下写真左)。
明代の記録によると、ここには古城内にあって造木林となっており、人があまり出入りしない自然庭園のような場所だったという。明代後期の 1550年ごろには、兵部&刑部尚書として当地に赴任していた 鄭暁(1499~1566年)が緑地部分の一部に邸宅を構える。その 子・鄭履淳も 1561 年に科挙に合格し進士となると国家官僚としてのキャリアを積むとともに、実弟・鄭履准の協力の下、父・鄭暁の偉業を継承し、多くの蔵書を収集し、邸宅内での保存活動を続けたという。
清代には自然庭園が撤去されてしまったらしい。

現在は、小さな池と短い石橋がいくつかあるだけだった。こんな公園内でも魚釣りしている人がいて、さすが大陸中国の何でもありな 生活環境(傍若無人とも表現できようが)に感嘆させられた次第である。

海塩県 海塩県

また、公園内にあった 小さな橋「蛋浦橋(上写真右)」は、南北朝時代、梁朝の治世下の 534年に、海塩県の北東部分が分離され 蛋浦県(県役所は今の 上海市金山区 呂巷鎮の太平寺一帯に開設)が新設された際、その県境界ラインとなった場所という。蛋浦県側に近かったので、この橋名で呼称されるようになったらしい。しかし、間もなく蛋浦県は廃止され、その県域は 前京県 に吸収合併される(下地図は陳朝時代の 558年当時)。

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新橋北路 をさらに南進すると、文昌東路との交差点に行き着く。
この角地に、当地出身の 偉人・張元済の名を冠した図書館や博物館が開設されていた。下写真。
きれいに清掃と管理が行き届いており、地元政府の力の入れ様が伝わってくる。

海塩県 海塩県

張元済記念博物館に入ってみた(開館 8:30~12:00、14:00~17:30。冬季午後は 13:45~16:45)。

清末ギリギリに科挙に合格し、1898年に皇帝に謁見して官吏に登用されたという秀才らしい。清朝が倒れ、中華民国時代に入っても、中国の文明開化政策を 出版・教育界から支え続け、「中国の福沢諭吉」的な大御所となっていった。共産党中国時代も存命し、92年間(1867~1959年)もの長寿を全うする。彼の先祖も地元名門一家だったという。



 張元済(1867~1959年)

広州 で生まれ、14歳のときに母に連れられて海塩県へ移住してくる。18歳から科挙試験を受け進め、中秀才や挙人となり、最終的に 1892年、26歳のときに進士に合格し、翰林院(官僚エリート養成機関)の 庶吉士(研究生)となる。

1894~1898年の間、まずは刑部貴州司の主事として、続いて 王都・北京の 総理各国事務衙門(外交事項の諮問機関)で 章京(書記官)として勤務し、キャリアをスタートさせる。同時に通芸学堂の創設にも関与し、西欧知識の習得と言語学習に励むようになる。その一環で、変法運動にもかかわり、朝廷の近代化を志すも、戊戌の政変後に左遷され、閑職に追いやられる。しかし引き続き、ドロップアウトすることなく清朝を支えた。

1899~1902年 7月まで、南洋大学(今の上海交通大学)訳書院総校兼代弁院で翻訳主任として勤務する。
同時に、付属小学校や公営学校で特殊エリート学級などを創設し、自身が翻訳した『原富(アダム・スミスの国富論)』などを教材として提供した。以後、「知育こそが個人や国家自体の未来を決する」をモットーに、教育活動に身を投じるようになる。

1903~1948年、商務印書館に勤務する(1897年に新設された出版社)。同社 編訳所の所長から、1926年には総代表へと上り詰めていく。この間、新しい教科書を編纂し、辞書を編集し、雑誌や海外名著の翻訳などを手掛けた。東方図書館や合衆図書館の運営にも尽力し、中国と西洋文明との交流と学校教育の発展に貢献した。
1932年の第一上海事変では、日本軍の空襲により商務印書館の事務所と 印刷工場、保存書籍の大部分が焼失される。当時、全国に流通する出版物の実に 52%を担っていた商務印書館の損害は、中国の書籍文化に甚大な被害を及ぼすも、地道な復興活動を行い、日本軍が占領する上海にあっても、その政策協力を拒否して活動を続けたという。

1949年、第一期全国人民代表大会の代表に選出される。また、商務印書館の総代表であり続けるとともに、上海市文史研究館の館長なども兼務した。

1956年には台湾の蒋介石宛に、平和的に中華再統一実現を呼びかける書簡を送っている。1959年、第二期全国人民代表大会でも代表に選出されるも、同年 8月14日、上海にて 92歳で死去する。

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なお、彼の家系はもともと名門の家柄で、地元でも資産家であり、教育一家であったという。
元末明初の混乱期、張元済の二十代前の 祖先・張留孫が一族を連れて 銭唐 からこの海塩県へ移住して以降、この地の名士として繁栄してきたという。

十代前の 祖先・張奇齢は明末の 1600年前後に科挙に合格し進士となり、杭州 の名門校である虎林書院で教鞭をとる。その学識は江南地方でも有名で、大白先生と通称された。
また、海塩県城の南門外にあった鳥夜村に書斎「大白居」を開設し、そこで学んだ 実子・張惟赤も清初の 1650年ごろに科挙に合格し進士となる。戸部山東司主事に任じられ、その子もまた実直な行政官として評価されることとなった。

後年、故郷に戻った張惟赤は父の書斎を拡張させて「渉園」と改名する。この頃から、書物の収集が開始され、以後、数代にわたって地元関連の書籍保管活動が継承されるも、張元済の代にはすでに兵火で多くの書籍が焼失、散逸していたという。
これに心を痛めた張元済は、自力で海塩県下や嘉興府下の各地で書籍を集め直し、自らを「渉園オーナー」と自称して、それらの編纂を進めていく。その代表作が『渉園序跋集録』であった。
こうした張元済のエピソードにちなみ、現在、当地にある図書館旧館の周りの庭園は「渉園」と命名されている。



続いて、南に隣接する県博物館に入ってみる。3階が地元郷土史の常設フロアだった。
入り口には巨大な海とのかかわりを示すモニュメント。下写真。

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海塩県城は最初、秦代の紀元前 222年に開設された、かなりの歴史を有する県城で、もともとは現在の 上海市金山区 に立地していた。

その後、大地震で城や県役所が湖底へ沈んでしまい、移転を余儀なくされる。再移転した地でも、大地震で地面が崩壊し、県城や 県役所、街全体が湖底へ沈んでしまったといい、県長官はじめ 官吏、兵士、住民ら数百名がそろって水死したという。

そして 341~717年の間、現在の古城地区のやや南東にあった春秋戦国時代の 古城跡「馬嗥城(呉が越を攻めた際、台風により多くの戦車や騎馬隊が破壊され、軍馬が悲痛の鳴き声をあげた逸話から命名。前漢時代には塩田を統括する司塩校尉の役所が開設されていた。現在は一切、その遺構は残っていない)」内に入居し、その後、現在の古城地区へ最終移転されたのだという。
全体を通して非常に見応えのある、分かりやすい展示内容だった。

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上写真は、後漢~三国時代に活躍した海塩県ゆかりの 3巨頭。

陸遜(中央、183~245年)は、海塩県 華亭郷 出身。言わずと知れた呉の大将軍。若い頃、県長官代理(海昌屯田都尉)として当地に赴任し、農地開墾と水軍部隊の創設に尽力した。
陸績(左、187~219年)もまた、海塩県 華亭郷 出身。後漢末の 蘆江郡(今の 安徽省合肥市)太守・陸康の子。文学者、天文・暦学者として活躍。主な著作は『渾天図』『陸氏易解』など。
幹宝(右、283~351年)は、河南省駐馬店市新蔡県佛閣寺鎮小干庄の出身。 東晋時代の著名な 文字家(主な 短編小説作品『捜神記』)、史学家。山陰県長官、始安郡太守司徒右長史、散騎常侍待などを歴任した。父の幹莹が呉朝廷下で立節都尉に任じられると、この父の赴任に従って、幼い幹宝も海塩県へ移住してきた

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また、三国時代に絡み、江南地方最古の 仏教寺「金粟寺」についての解説もあった。

海塩県下の 金粟寺(今の 嘉興市海塩県澉浦鎮茶院)は、金陵県下の 保寧寺(今の 南京市 秦淮区大仙寺)と、太平県下の 万寿寺(今の 安徽省黄山市 黄山区湯口鎮黄山風景区)とともに、江南地方最古の 3仏教寺とされる。

これらの寺院は、中央アジア出身の 高僧・康僧会が呉の孫権の求めに応じて建立したもので、後漢末まで仏教寺がなかった江南地方にあって、初の仏教文化の伝播となった(華北地方には、前漢時代末期にシルクロードをつたって既に仏教が伝わっていた)。

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なお、この仏教を伝えた 人物・康僧会であるが、幼少期、商人であった父に連れられて、移住先のインドから 交阯(今の ベトナム・ハノイ)に移り住んでいた人物で、10歳過ぎで両親を亡くすと出家し、そのまま終生、仏道修行に励んだという。

康僧会は 247年、呉の 王都・建業(今の江蘇省南京)に上京し、孫権に謁見すると、釈迦仏佛真身舎利への祈祷を目的として、建初寺の建立を許可される(孫権は、長男で皇太子であった孫登の教育係として華北出身の 仏僧・支謙を召し抱えており、すでに仏教に親和性があった)。これが、江南地方最初の仏教寺と言われる。康僧会はそのまま建初寺に滞在し続け、『呉品経(小品般若)』『六度集経』の 14巻の執筆と、『安般守意経』『法鏡経』『道樹経』の 3 経典を漢訳し、江南地方の仏教普及の下地を作り、280年4月に当地で臨終を迎えている(前年 279年11月より開始されていた西晋朝の 6路侵攻で、各地の呉軍の防衛戦線が突破される中、翌月 5月1日に孫呉が降伏に追い込まれる。下地図)。
康僧会は存命中、近郊でいくつか仏教寺を建立しており、そのうち現存するものが上の三寺、というわけだった。

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見学後、いよいよ古城エリアの散策を進める。といっても、城域は相当に広く、 この博物館前の バス停「綺園景区」が旧市街地の交通の中枢を担っており(下写真)、当地観光の際は拠点となり得る場所だったのが幸いした。

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このバス停前までは、県バスターミナルから K1と K4番、K24番、K210番の 4路線バスが運行されている。
下写真左は、新橋北路。下写真右は道路沿いの海塩県博物館の全景。

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そして、特に古城巡りで便利な路線は、この新橋北路沿いを通過する路線バス Y8番だろう。南方面行のバス停で待つと、そのまま東門あたりをぐるっと巡れる。海濱公園、城東路口などのバス停が、ちょうど東門や東面城壁があったエリアに相当する(下ルート図)。

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ちなみに、この辺りは Y6番バスも東門公園を通過していた。Y4番路線バスも城北路の百可路地あたりを通過できるが、直接的に 古城エリア を巡るルートではない。

もし、バス移動の時間がもったいない場合は、博物館の南隣のショッピングモール前にたくさんの三輪自転車が客待ちしているので、彼らと交渉するのもいいだろう(下写真)。

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下写真は新橋南路沿いから、東西の 城内メイン運河「塩嘉塘河」を眺めたもの(下写真左の中央奥に見える建築物が、復元された東城門である。下写真右は逆方向で西側)。
ちょうど、この橋の南岸にも三輪タクシーが客待ちしている。

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筆者も時間がなかったので、海濱公園や古城エリア東部を一周巡ってもらうことにした。

途中下車で、写真撮影なども都度、協力してもらい、最後に 30元あげておいた。この県内で観光利用する客もいない様子で、運転手も最初は戸惑っていたが、こちらが 30元あげると喜んでくれた(下写真左)。値段が定まっていない珍しい利用方法だったので、値付けが分からない運転手は満足してくれたのだろう。

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上写真右は、城北東路を東進中に、高橋から 城内運河「塩平塘河」を眺めたもの(南方向)。
下写真左は、この城内運河が東西に交差するポイント。海濱公園から塩嘉塘河を眺めたもの(西方向)。
この海濱公園内にきれいに修復された 東城門(鎮海門)が目玉スポットとして鎮座していた(下写真右)。城壁上には登れない。

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その脇には巨大な古城マップが設置されており、これは大満足だった(下写真)。
この地図を見て、はっきりと古城の位置と広さが理解できた次第である。かなり広大だったことが分かる。

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古城マップ の細部を見ていると、至る所に寺院があり、その周辺に庶民の居住エリアが広がっていたことが伺える(下地図)。
なお、海塩県の旧市街地で現存する最古の寺院は、千佛閣(唐代後期の 768年建立時、千佛大宝閣と呼ばれた)といい、現在、天寧寺などの大寺院と軒を連ねて、 古城外の西側すぐの 一区画内(海浜西路沿い)に集積されている。
この千佛閣の本殿は横幅 27.5 m、奥行き 17 m、高さ 23 mもの巨大さで、入母屋造スタイルの屋根を持つ二階建てとなっており、総面積は 1,000 m2にもなるという。

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そのまま海濱公園を抜けて、城内運河「塩平塘河」にかかる東海橋を通過し、百可世家エリアを西進して、博物館前の バス停「綺園景区」まで戻ってもらうことにした。

筆者が訪問した 当時(2018年5月末)、百可世家エリアでは公園整備と新宅地開発が進み、せっかくの旧市街地や古民家群が破壊され平地化された状態が広がっていた(古城時代、この百可世家の北側に北城門があった)。近年中にも、新興住宅街へ様変わりしてしまうのだろうか。。。

さてさて、最初の乗車地点に戻って、博物館前の バス停「綺園景区」で下車する。
ここから再び海塩県バスターミナルまで戻って、 嘉興 行の 171番路線バスに乗り換えるのも面倒なぐらい遠い上に、運行間隔も 20~40分とかなり空くので、最短距離で乗車できる、171番路線バス走行ルート上のバス停まで路線バスで移動し、そこで乗り換える方法をトライしてみた。

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このまま博物前の新橋北路を北上し、塩北路あたりで下車して、この辺りの交差点で 嘉興市中心部 行のバスに乗り換えるのがベストな組み合わせだった。
その選択肢にかなうルートは、K1(上写真)と K210路線バス(下写真)がピッタリだった。

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最初に来た K1路線バスに乗車し(2元)、10分弱移動すると海興東路を越えた直後に広がる ショッピングモール「喜凱城」の、次の バス停「塩北橋(行知小学)」で下車した(下地図の青ライン)。
バスの運転手に念押しで確認すると、ここで待てば 171番路線バスが来る、とのことだった。

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実際、すでに 10人近い人たちがバスを待っていた。そして、15分ほどすると 171番路線バスが到着する(下写真。嘉興北バスターミナル行)。嘉興鉄道駅まで 12元という。だいたい 1時間10分ほどの乗車時間だった。

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さらに 新収穫は、この バス停「塩北橋(行知小学)」から 平湖市(K167番路線バス、40~70分に一本運行)や、 乍浦鎮(K170番路線バス、40~50分に一本運行)行の路線バスへ乗り換えられる、という点だった(下写真)。
今回は、時間がないのでトライできずに撤退した。

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海塩県の歴史

今から 5000年以上前には、すでに現在の海塩県一帯で古代人類の生息が確認されているという。
春秋戦国時代、江南エリアは呉と越との覇権争いの最前線地帯となり、度々、戦場となっていた。

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紀元前 473年に越王の勾践が呉国を滅ぼすと、江南地方はすべて越国に併合される。
その越国も紀元前 334年、楚の威王により滅亡に追い込まれると、旧領土は楚領に組み込まれた。

最終的に紀元前 223年、秦が楚国を滅ぼすと、翌紀元前 222年に中央集権体制の確立が図られ、会稽郡が新設される。このとき、今の 上海市金山区 の南東部の甸山一帯に、【初代】海塩県が新設される(会稽郡に所属)。これが、現在の上海市区における最初に県城開設となる。
当時、広大な海岸線沿いに塩田が開拓されており、中国でも有名な海塩の産地であったため、海塩県と命名されたと言われる。

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これ以降、海塩県の県役所が 5回、移転されており、そのうちの 2箇所が現在の県域内にあった。
まず一回目、秦末の紀元前 210年、大規模な地殻変動が起こり、県城全体が集落ごと柘湖に沈んしまうと、武原郷城(現在の 嘉興市平湖市 当湖街道にある東湖一帯)内に新たに海塩県役所が移転される(【二代目】海塩県)。

翌紀元前 209年、項梁が会稽郡都だった 呉県城 で挙兵すると、瞬く間に会稽郡下の 26県全土を掌握し、楚を再興させる。この時、海塩県一帯の住民らも徴兵される。

最終的に楚漢戦争に勝利し、紀元前 202年に前漢朝を建国した劉邦は、直轄領の郡県制と各諸侯らによる封国制を併用して全国統治体制を確立する。しかし、独立心を高めた諸侯らにより 呉楚七国の乱(紀元前 154年)が勃発すると、反乱を鎮圧した前漢朝により全土で郡県制が再導入され、敗死した 呉王・劉濞【王都:広陵城(揚州)】の領土は 会稽郡、豫章郡、丹陽郡の三郡に分割されることとなった。以後、前漢朝により直轄の塩管役所が海塩県城内に開設される。
なお、この塩役所は、封地内の浮浪者らを塩田労働者としてかき集め、 製塩業で莫大な収益を上げていた 呉王・劉濞の治世時代、彼らを統括するために馬嗥城内に開設されていた司塩校尉を継承した機関であった。

しかし、後漢時代中期の 127年、再び地殻変動により県城が 当湖(現在の嘉興市平湖市にある東湖の旧名。もともと陸地だったが、この地殻変動で湖が誕生し今日に至る)に沈んでしまい、多くの住民らが犠牲となる。直後に、海塩県役所が南へ移転され、 斎景郷の 故邑山(現在の 嘉興市平湖市乍浦鎮のあたり)の山麓にあった故邑城内に開設される。下地図。【三代目】海塩県。

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後漢末の 204年ごろ、呉の孫権が陸遜を海昌都尉として、江南地方の銭塘江沿いに赴任させる。このとき陸遜は、由拳県(今の 嘉興市平湖区)の南部一帯の 統括(土地開墾と領民支配)を委ねられ、海昌都尉役所(今の 嘉興市海寧市塩官古城)を新設する。

東晋時代の 341年、海塩県役所が 故邑城 から 馬嗥城(今の 嘉興市海塩県武原鎮の南東部。春秋戦国時代から続く古城集落)内へ移転される。【四代目】海塩県。
南北朝時代、梁朝の治世下の 507年、海塩県の北東部が分離され、前京県 が新設される。
同じく梁朝支配下の 534年、さらに海塩県の北東部が分離され、胥浦県が新設される(間もなく廃止される)。

唐代の 717年5月、海塩県役所が現在の 旧市街地(武原鎮)に移転されてくる。【五代目】海塩県。
751年、海塩県の北部と、嘉興県 の東部、昆山県の南部が分離され 華亭県 が新設される。

時は下って 1295年、海外貿易の促進を図る元朝により、海塩県が海塩州へ昇格されるも、 明代初期の 1369年、再び海塩県へ降格されることとなった。

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明代初期には城壁の全長が 3,050 m、高さ 8.3 mにも達しており、その外側には 掘割(幅 23 m)がぐるりと取り囲んでいたという。また、吊り橋を併設した 4城門(靖海門、望呉門、来薫門、鎮朔門)と 南西北に 3水門が設けられていた。

1384年、倭寇対策本部として海寧衛の役所が海城県城内に開設される。この時代、倭寇の襲撃が激化したことから、城壁の増強工事が手掛けられ、各城門には甕城が、そして城壁上には敵台 18箇所を備えるまでに重装化されていた。その後も 200年にわたって倭寇が近隣地帯を襲うも、ついに海塩県城が落城することはなかったという。

明代中期の 1430年、海塩県下の 武原郷、斎景郷、華亭郷、大易郷の 4郷が分離され、平湖県 が新設される。県役所が当湖鎮城内に設置される。

時はさらに下って清代中期の 1726年、金山県 が新設されると、江蘇省下の 松江府 に帰属した。
中華民国が建国された直後の1912年、全国で道府制が廃止され、省県制へ改編されると、浙江省に直轄された。

1937年11月5日、日本軍が 金山県 と海塩県の海岸線から上陸し、金山衛城 を占領すると同時に、海塩県城にも猛攻撃が加えられ、城内は焦土と化したという。そのまま日本軍の占領下に置かれた。
下写真は共産党中国時代初期のもの。戦争で荒廃した古城地区には田畑が広がり、住宅街は城外西の寺社町地区へ移動していることが分かる。

海塩県



 海塩県内の倭寇戦跡

前漢時代の紀元前 110年、現在の海塩県の海岸地帯に水軍施設が開設された記録や、後漢時代の 132年、沿岸地帯に守備兵が増派された記録などが残っているという。

三国時代の 264年には、海賊が海塩県の沿岸部を侵犯したこと、西晋時代末期には 海賊リーダー・孫恩、劉宋朝時代の 470年には別の 海賊リーダー・田流などの率いる無法集団らが沿岸部を荒らし回ったという。
唐代の 717年、蘇州刺史の張廷珪が上奏し、澉浦鎮が新設される。

南宋時代の 1205年、澉浦鎮に 水軍基地(当時、白塔潭と呼ばれた場所)が開設される。1,500名の兵士が配備されたという。この水軍基地が明代に澉浦水軍基地として継承されることとなる(ちょうど、金山と澉浦の軍事基地の中間に位置した)。
特にこの時代、浙江省一帯は 王都・臨安 の近郊に位置したため、沿岸部には水軍や軍事要塞などの防衛網が増設されていった。浙江省の海岸線には、 1250年代に 12,000名が、1260年代には 20,000名の守備兵が配備されたといい、全国の水軍の実に 30%が当地に集結していたことになる。

海塩県

元末以降、倭寇の襲撃はますます激化し、海塩県下の沿岸部にはさらに狼煙台や防衛要塞などが増設されていった(上地図)。

1384年、明朝は海塩県城内に 海寧衛指揮使司(海寧衛)を開設する(下写真)。その名の由来は、「海防、安全寧静」の文言から取られたという。
当時、海寧衛下に 左、右、中、前、后の五か所の千戸所が新設される。2年後の 1386年、さらに澉浦所城と乍浦所城の二か所が新設される(共に、海寧衛に帰属)。

この時代、徐行健(海寧衛指揮。1556年4月戦死)や 劉大仲(義勇兵 500名を率いて内地より来援し、柘林乍浦、広陳【今の 嘉興市平湖市広陳鎮】などで転戦するも、戦死する)などに代表される対倭寇戦のリーダーらが活躍することとなる。

海塩県

明代に採用された衛所制では、各指揮使の下、5,600名の兵士が統括された。衛所の下部組織として 千戸所(兵 1,120名)が、さらに下部組織として 百戸所(兵 112名)が配置された。
明代初期には全国で 339の衛所、65の千戸所が設置されており、以後も順次、増設されていく。前述の海寧衛と 澉浦所、乍浦所 は全国でも最も早くに設置された衛所の一つで、対倭寇戦線の重要拠点として機能した。

そもそも「戸所」とは、元朝と明朝により採用された軍単位で、「衛所」の下部組織に位置づけられたものだった。ちょうど、「衛所」が今日の地区軍事本部だとすると、「戸所」はその下部組織の一師団、もしくは民間独立組織に相当した。
そして、「所城」とは駐留軍が配置された城塞集落で、千戸所の規模は 300~700軍戸(軍役は各世代に受け継がれ、軍戸と通称された)の間で、大千戸所は基本的に、職業軍人 1,120名であるが、その実は軍民混成であり、平時には軍事機構絡みの民間部門に従事していた。

海寧衛下に配置された複数の所城のうち、澉浦所城が最も堅固な城塞で、城壁全面が石材とレンガ積みで建造され、当時、最高峰の防衛設備を誇っていたという。


 澉浦古鎮

澉浦古鎮はその昔、海寧から海塩県域を経由して海へと流れる 河川(澉川。現在は消滅して存在せず)が通り、その河口部に位置して発展した交易都市であった。この河川名にちなみ、澉浦と通称されるようになったという。

内陸から海へと通じる水脈、そして東西には秦望山と譚仙嶺がそれぞれ横たわり、杭州へと通じる水陸の交通の要衝を担うこととなる。

唐代の 717年、蘇州刺史の張廷珪の上奏により、澉浦鎮が新設される。
もともと天然の良港であったことから、宋代、元代には海外貿易の交易都市として発展し、繁栄を謳歌したという。

特に、南宋朝が王都を 臨安(杭州)に開設すると、澉浦鎮は王都近郊の貿易港となり、水陸を伝って王都へ物資が運ばれる過程で、重要な中継都市としてますます台頭することとなった。また外国貿易に力を入れた南宋朝の政策もあり、日本や 朝鮮(高麗)、東南アジア、アラブ諸国など、多くの外国船が当地に寄港したという。
後に『東方見聞録』を記すことになる イタリア商人・マルコ・ポーロも当地を訪問しており、「積み荷を山盛りにした巨大船舶がたくさん停泊し、インドなどたくさんの国々からの物資を運んでいた」と描写している。

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1246年、市舶官が設置されると(上写真。1250年に市船場へ昇格)、交易船の監督を担当した。外国船から、福建省、広東省籍の船舶まで、たくさんの交易船が往来し、当時、澉浦港街は 慶元(寧波市)や 濾瀆(上海)と並ぶ、江南地方の重要貿易港の一角として君臨していた。

明代、清代も一定規模の交易都市としてその規模を維持し、元代の市船場は税関として引き続き、機能し続けることとなる。
中華民国建国直後の 1912年、当地を訪問した 初代総統・孫文が、この澉浦鎮に新たに東方専用の港湾施設を建設しようと息巻いたぐらい、十分な成長可能性を有する地域だったという。

現在の海塩県澉浦鎮澉浦村にあった古城で、目下、ちょうど西大街沿いに 1,000 m前後、明代からの城壁面が残る。

この澉浦の地は軍事上、重要なロケーションにあり、明代初期には度々、倭寇の侵入を受け甚大なダメージを受けてきたため、明朝廷により澉浦鎮を囲む形で堅牢な城壁が建造されたのだった。

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築城当初は土壁城壁だったが、1410年ごろに石材とレンガの混成タイプ城壁へ、さらに 1440年ごろに 100%石積み城壁へと急ピッチで改修されていったという。 1540年ごろには四城門に甕城が完備され、さらに水門も一か所、増設され、高が約 7 m、全長約 4.5 km の城壁の外周は完全に外堀で囲まれることとなっていた。

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壮麗な城壁を誇った澉浦所城であるが、共産党中国時代の 1978年、南掘割(護城河)の南山河が埋め立てされ、大規模な都市開発がスタートされると、間もなく、北面、東面、南面の三面の城壁も撤去されてしまう。

以後、西城門とその周辺の城壁 1000m前後のみが残されるだけとなった。城門は並列して二か所あり、一つは旧城門、一つは新城門と呼ばれていた。
なお、新城門は旧城門にかなり近接していたため、1991年に旧城門に似せた形状の門を新設して、双子城門として再整備される。また、城門上には 粛武亭(西城門はかつて粛武門と通称された)と呼ばれる庭園が増設され、市民の散策公園へ改修される。

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今日でも外周を囲った掘割跡の多くが現存しており、また古城地区内では 東大街、東門大橋、西大街、北大街、南大街、城南橋などの地名がかつての記憶を今に伝える以上に、この旧市街地区に張り巡らされた 老街小巷(路地裏)には多くの歴史的な建物が残されているという。今日でも、白壁の古民家などが保存されており、観光名所として新開発が進められている。

例えば、北小街沿いにある 塘門弄(金王廟弄とも呼ばれる)は、宋代から残る最古の 小巷(路地裏)という。元代、ここは最も賑やかな繁華街となったエリアで、今日の路地にある花園里の地名はその名残という。
また、呉家角は北小街の北半分にある西面路地なのだが、ここは元代、明代に栄華を誇った地元名士の大船呉氏の邸宅エリア(元代の大画家である呉鎮はこの一族出身) で、現在もまだ大船呉家の庭園にあった荷花池が残されている。

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澉浦鐘楼(上写真)は、元代の著名な海運家で、戯曲作家である楊梓が建てたものという。
そもそも楊氏の一族が代々、澉浦港の管理を朝廷から委託されており、その家系は非常に裕福であった。楊梓が杭州路総管の任にあった時代、日本との貿易が頻繁に行われ、その航海が危険を伴うものであったことから、五穀豊穣、安全航海を祈願し、北門禅悦寺内に高さ 20mの鐘楼を建設される。この中には 2,800 kg 近い銅製の鐘が安置されており、日本から海路、わざわざ運ばれてきたものであったという。その鐘の音は数十キロ離れた地点でも聞こえたというが、文化大革命期間の 1966年9月に破却されてしまう。

また、南大街沿いにある古寺弄と城隍廟弄の路地は、いずれもかつて当地に存在した海門寺と城隍廟があった名残という。かつての門前町で、繁栄した往時の様子がしのばれるエリアとなっている。

また、古城地区の東端にある大池弄という路地裏は、澉浦城内にあった最も大きなため池名に由来している。現在はそのため池は半分が埋め立てされてしまっているが、今でも同じ場所に立地している。この池の周りは、澉浦鎮の地元民らの食堂が集うエリアとして有名で、特に紅焼羊肉芋艿が人気という。


 黄湾砲台山

黄湾村にある砲台山の山頂部の南面に、かつて砲台陣地が建造されており、明代、清代の対倭寇防衛戦の遺跡となっている。青レンガを積み上げた小規模な土塁壁があり、ここに三門の土製の大砲が配備されていたという。

近年になって砲台山旅游観光地として整備が進められ、現在、山頂へ上る山道が通じて山頂景色公園となっている。この南面からは 嘉紹大橋(常台高速 G15W)が よく見渡せるという。



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