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(中心部)榕城区 ①
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訪問日:2019年7月下旬 『大陸西遊記』~
広東省 揭陽市(中心部)榕城区 ② ~ 区内人口 56万人、 一人当たり GDP 30,000 元(榕城区)
➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠
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石獅橋(北滘橋、行彩橋)と 城内水路跡
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【豆知識】古城時代、たくさんあった橋の中でも、 最重要だった 石獅橋(北滘橋)■■■
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掲陽県役所のすぐ裏手に立地していた 役人邸宅エリアの 今昔
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見事に残る、県役所の 石垣跡(県署囲壁)
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元代の土壁から、明代・清代の石積み城壁までが混在する、石垣史の生き証人!
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完全に管理放棄され、荒廃するままだった 韓祠伯公宮(韓愈を祀った廟所)
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裏路地に古民家や廟所がいくつも現存する、歴史ストリートだった 韓祠路
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かつての 県役所敷地(県署囲壁の内部)に立地する、 思賢中学校と 警察署
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県役所の西面から南面にかけて広大に残る、騎楼群
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県城転入時の南宋時代 1140年からの歴史を紡ぐ、城隍廟
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進賢門 ~ 壮麗な楼閣を誇り、今なお掲陽市のシンボルとして君臨する
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外堀(護城河)と 東面城壁跡地(一部が城壁公園として整備されている)
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北門市場 と 北門跡
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あまりに旧式過ぎてビックリした、掲陽市総合バスターミナル
榕城区 ①
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揭陽市民俗博物館(丁日昌紀念館)
を見学後、博物館を出ると、その正面の紹興路沿いに流れる用水路に目をやる。かつての 城内水路(
運河
)跡だろうと推察できた。
かつては、庶民のトイレも、洗濯も、水運交通も、全てこの運河が利用されていたわけである。
その先に、石獅橋(俗称:行彩橋)という歴史遺産があった(下写真の右手)。
下写真左は、石獅橋を正面から眺めたもの(石獅橋から南は、紹興路が打銅街へと名前を変える)。
橋上には地元神も祀られており、視覚的に分かりにくい構造だったが、別々の歴史遺産が共存している状態だった。
下写真右は、石獅橋から西へまっすぐ延びる西馬路。かつて、この先に西城門が立地していた。
もともと
掲陽県城(通称:榕城)
には非常にたくさんの橋が架けられていた。
明末の資料によると、石橋は 24箇所あり、木板をかけた簡易な橋だと無数に登ったという。これだけたくさんの橋がある中で、どうして 石獅橋(本名:北滘橋、俗称:行彩橋)が当地でこれだけ信仰されているのだろうか?
風水理論によると、揭陽県城は北側にパワースポットがあり、周囲の山や川の力を借りて、運気パワー(龍気)を受容していた。そのルートが、現在の揭陽市揭東区桂嶺鎮あたりの山脈地帯から下って、直接、県衙(県役所)へと通じるラインで、ちょうど西城門がフロントゲートとなっていた。こうした由来から、かつて西門外にあった吊り橋の東岸脇に接龍亭という小さなか亭が設けられており(現在は食品会社の敷地で、その西倉庫内に相当)、運気パワーを迎える目印役を担っていたという。
運気パワーは西門を入ると、まっすぐ西馬路を東進し、その過程でパワーが細長く集約され、また勢いをつけながら城内を進んだため、これを抑えて迎えいれるために、北滘橋の東岸側に大きな石造りの獅子像が設置されたのだった。
獅子は百獣の王として古くから敬われ、橋の入り口にそえられることで加熱する運気パワーをなだめて、吉祥を運びこむ、おだやかな気流に換える効果を期待されていたのだった。
この裏通り沿いに「泰山石敢當」と刻まれた、魔除けの石柱が今も残っているのも、上記の運気に混ざって城内に入り込んだ邪気を避ける目的があったため、という。
こうして北滘橋の傍らに立つ獅子の石像から、地元では石獅橋と通称されるようになり、もともとの北滘橋の名称が忘れ去られる中、石獅橋が正式名称へと変えられて行ったというわけだった。
每年、旧暦の 1月1~11日の期間中、この石獅橋は華やかに飾られ、周囲は大混雑のお祭りとなる。これは上記の風水の運気を祝うものだという。
この時、この橋の周辺から城隍廟までの、県役所の西から南面一帯の市街地に赤提灯などの派手な装飾が施され、毎年、20万人を越える人々が訪問する賑やかなシーズンを迎える。こうした事情から、石獅橋は行彩橋とも俗称されている。
現在、揭陽市内にある広東省指定の 6大歴史遺産のうちの一角となっている。
さて
再び
、石獅橋に目をやると、裏路地の先に掲陽県署囲壁(下写真の赤看板)の案内板があったので、足を踏み入れてみる。
古民家が延々と続く古い住宅街だったが、場所的には県役所の西隣地区ということで、かつては官僚や役人らの住居が軒を連ねるエリアだったかと推察される。
すると、正面つきあたりに長い石積み城壁面が見えてきた(下写真中央)。
その直前に、地元神を祀った廟所があった。街角のあちこちに神様の社を設置し、大切に保護している風習は、
福建省
、
台湾
、そして日本にもよく目にするもので、民族的、文化的なつながりを思わずにはいられない。
さて
、いよいよ城壁面に行き当たる。
ここは、県役所(内城=禁城と通称された)を囲った城壁で、日本の城郭で言えば、本丸にあたる石垣である。内部は、県役所以外に 科挙試験会場、監獄、庭園なども併設されていた。
元代末期に築城されて以降、ずっとここに県役所が立地してきたため、数百年前の建材も混ざっているという。
補修されていない壁面は非常に見応えがあった。
元末の 1352年、海賊らの襲撃や民衆反乱が激化する中、掲陽県城に派遣されていたモンゴル人行政審査官の指示で県役所施設を防護すべく建造させたもので、当時、城壁の高さは 4 m(周囲は水堀が取り囲んだ)、全長は 614 mにも及んだという。建設当初は土壁で設計されていた。
完成後も、
度々
、修繕工事が施されてきたようである。
明代中期の 1460年に県長官の陳爵が拡張工事を手掛け、全長 1,000 mまで拡張させる。
さらに 1538年、嶺東道を敷設する工事にともない、県役所の敷地が一部縮小されている。その際、元代からの土壁が破壊され、明代特有の石材を交互に積み上げ、その隙間に灰や貝殻を混ぜた土砂を埋め合わせる工法が採用されたのだった。
こうした背景から、元代、明代、清代のいろんな工法が混ざった状態で、全長 614.4 m分、厚さ 0.4 mが現在、残されているという。
北面から東面へと進んでいくと、元代に建造されたと思わしき、土壁だけの城壁が一直線に残っていた。
東面となると、完全に土壁だけとなった(下写真)。
下写真左
も東面城壁の一部で、後世になって掘削された出入口が、再封鎖されている生々しい状態が見てとれた(下写真左)。
そのまま裏路地の突き当りを東進すると、廃墟となった廟所の正門があった(上写真右)。下地図で見てみると、ここが 韓祠伯公宮
(唐代の著名な儒学者・行政官であった韓愈を祀った廟所。819年の 1年間、潮州長官職へ左遷され、当地に赴任していた)
だった。。。もう誰の廟所かも不明な状態だった。
韓祠伯公宮
の裏手には、古民家や廟所(下写真左は許氏祖廟。1711年に県役所の裏手の池淵に建立された)が現役で使用され、人々の生活感が息づいていた。
東隣の韓祠路まで出ると(下写真左)、これを南進し、学宮(下写真右のピンク壁)まで戻った。
学宮前
の思賢路まで戻ると、先ほどの城壁内部がどうなっているのか、正面側から回ってみることにする。
そこには、思賢中学校(下写真左の奥に見える高い建物)と警察署(下写真右の奥に見える青色カラー。中山派出所)が立地していた。
つまり、かつての県役所の敷地は、現在、これら両機関が占有しているわけである。
周囲は
騎楼
(近代以降に中国華南で発展した店舗兼住居の戸建て商店街)がずらりと続く旧市街地が広がっていた。古城時代から「東朝西市」の都市設計となっており、東門外の庶民市場で一次産品が購入され、城内の西側に広がる町人街で最終商品として売られる構図が、今でもその名残を残しているのだった。
さて、思賢路(下写真左)から南へ中山路という路地が伸びていたので、南進してみる(下写真右)。
このエリアは騎楼通りとして歴史遺産指定されているそうだ。途中には布街など、たくさんの裏路地が枝分かれしており、ごちゃごちゃ感が世界中でよく見る中華街そのものだった。
掲陽県城の特徴とされる「丁」字路がたくさん見受けられ、今の市街地の道路にもしっかり息づいていた。
途中にあった城隍路を東進する(下写真左)。それにしても、シャッター街と化した路地は、人気が全くなかった。
やや開けた広場前に、雷神廟と城隍廟が並んで設置されていた(
上写真右
)。
雷神廟の 正門(上写真右の手前側)や 本殿(下写真左)の屋根上には、いかめしい武者の彫像がたくさん飾られており、まさに武神を祀っていることが伺えた。
続いて東隣の城隍廟を訪問してみる。
外部は修繕工事中だったが(上写真右)、内部はたくさんの参拝客でごった返していた(下写真)。
当地に県城が築城された南宋時代の 1140年に建立され、明代初期の 1369年に県丞の許徳が主導し建て替えられたものという。明代以降、幾度もの地震に遭っても倒壊することなく、往時の建築スタイルをそのまま伝える文化性の高さと、省内でも最大級の規模を誇ることから、1989年、広東省政府により歴史遺産指定を受けている。
城隍廟の見学後、さらに東隣の学宮広場を通り抜けて、
進賢門
へ戻ってみた。
進賢門(明代の建築様式にて復元されている。これも広東省指定の歴史遺産)上の楼閣は閉鎖され、両脇の階段までしか上がれなかった。進賢門から東方向に進賢門大道がまっすぐに伸びる(下写真右)。
もともと、揭陽県城には東西南北の 4城門の他に、この進賢門が設けられており、5城門を持つ、不規則な設計スタイルの県城であった。 1622年に追加的に増設された進賢門は、北門と東門との中間に立地したという。
その 城門楼閣(3層の杉材建築物)は地面からの高さが 16.77 mあり、その姿が優美で地元民から愛されてきたこともあり、日中戦争が勃発した 1937年、他の 4城門がことごとく撤去され、その城壁跡(明代中期の 1460年代に石積みタイプへ大改修されていた)に環城路が敷設される中、保存がかなった唯一の城門遺産となっている。
なお、この城壁撤去工事は、日本軍機の空爆による連鎖破壊を避けるために実施されたということだった。
共産党時代に入り、進賢門は二度の大規模修繕工事を経て、1988年、掲陽市より歴史遺産に指定される。
下写真左は、進賢門の階段上から東面城壁の跡地を眺めたもの(南方向)。
下写真右は、この東面城壁の跡地である東環城路と、その外側に残る外堀跡を撮影したもの。
なお、進賢門周辺のロータリー部分には多くの路線バスが停車しており、地元路線バスの執着点になっているらしかった。
この中に、潮汕空港や
高速鉄道「潮汕駅」
を往来する路線バスもあった(下写真)。この便で道中にある
砲台鎮
へも訪問できる。
さて、この東面城壁と外堀跡であるが、南北に長大に連なっており、進賢門の北側にも延々と残っていた(下写真)。ただし、半分以上が埋め立てられ、川幅が短くなっていた。
この外堀跡をたどっていると、北東の端っこが外堀(
護城河
)公園として整備されていた(下写真左)。
その河岸部分は、北門社区老人会の活動スペースとして開放されているようだった(下写真右)。
老人会の活動スペース以降は、外堀(護城河)の両岸がきれいに整備されていた。
河岸沿いを歩いていると、城壁を模したコンクリ-ト壁を発見する(下写真右)。
その脇に案内板があり、この植林された花壇部分にかつて城壁が連なっており、日中戦争に際し、空爆での倒壊を防ぐため破却されてしまった、との説明が付されていた。
ここまでの移動ルートは、下地図の通り
(青色ライン)
。
北環城路との交差点前で、外堀(護城河)はプツリと途切れることとなる。うまい具合に円形のロータリー形式で河岸端まで公園化されていた(下写真左)。
そして
、北環城路の交差点を渡る。ちょうど、かつて北城門があった場所である(下写真右)。
実際、その交差点に接続していた韓公祠街の北端にあった北門市場の地名からも(下写真左)、その由来が伺い知れた。
下写真右は、北門市場の西脇にあった裏路地。やたら長い 地名「永革平安和諧社区」が気になった。
そのまま韓公祠街を南下し、再び学宮へ戻る
(上地図の赤ライン)
。この韓公祠街沿いにも 県役所(通称:禁城)の城壁遺跡の案内板が掲げられていた。
と、急に大雨が降ってきた。ひとまず、近くの建物で雨宿りし、やや小ぶりとなったタイミングで、そのまま電動三輪自転車タクシーで掲陽市総合バスターミナルまで行ってもらった(10元)。
雨脚はますます強まる中、三輪タクシーの運転手は気をきかせてバス発着所の入口までつけてくれたので、 1元追加して 11元あげておいた。
さて
、入口脇にあったカウンターで 10分後に発車するという
潮州行バス
乗車券を購入する(20元、身分証確認なし)。
それにしても、待合スペースや商店など、なんとも古臭いバスターミナルだった(下写真左)。
トイレは、まだまだニーハオ式で、
潮州市饒平県(黄岡鎮)にあったローカルバス発着所
などとは比較にならない旧型ぶりだった。男子トイレは二階だった。
そして、潮州行バスが発車すると、途中に馬牙バスターミナルにも立ち寄った。あとは、そのまま一直線で潮州へと向かった。
なお、この馬牙バスターミナル周辺には、たくさんの
汕頭
行の バス(308番バス)が客待ちしていた(上写真右)。ここから、
炮台鎮
へ訪問できるわけだ。どうやら、馬牙バスターミナルが現在の揭陽市における重要ターミナルとなっているようだった。
なお、先の揭陽市総合バスターミナル内には、 北に隣接する 豊順県(広東省
梅州市
)行のバスも止まっていた。
掲陽市中心部(榕城区)の都市開発は、ちょうど古城エリア外から始まったことから、古城地区は往時の息遣いをそのまま残すことができていた、非常に見応えのある古城地区だった。今でも城内水路や 古民家、古木、細い裏路地、廟所や祠などがたくさん残り、また路地名や地名にも多くの記憶が刻みこまれていた。西関路、西馬路、北環城路、東環城路、環城西路、韓祠路、北馬路、西馬路、元鼎路、城隍路、観音仔路(双峰寺がある一帯)、榕城東門総合市場、など。
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