BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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内モンゴル自治区 バヤンノール市 ~ 人口 176万人、 一人当たり GDP 37,000 元


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  戦場跡のみ



【 バヤンノール市の 歴史 】

バヤンノール市内の陰山の北部地帯には、すでに古代より人類の原始的な生活が見られたという。 石器文化が成立しており、狩猟採集生活であったらしい。
夏王朝~商~西周~春秋時代、この地は中原王朝の影響を受けることなく、鬼方や獫狁らの遊牧民族の居住区となっていた。
戦国時代においては、趙国により雲中郡が設置され、陰山山脈の南部まで影響下に 置いており、当時いた林胡や楼煩などの遊牧民族らは陰山山脈の北側へと追いやられていった。

秦王朝の時代、全国 36郡の一つであった九原郡の管轄地域は陰山山脈の南部までであり、 匈奴民族らが引き続き、陰山山脈の北部をその勢力圏に置く、棲み分けがなされていた。
しかし、前漢朝 7代目皇帝・武帝は、紀元前 127年、衛青を派遣し、 これら匈奴勢力を駆逐して、河朔平原一帯を平定することに成功する。そして、五原郡と朔方郡の 2郡が新設された。 このうち、朔方郡の管轄域はオルドス地方とバヤンノール 市の西南部一帯にまで及び、その下には、朔方、広牧、沃野(今の臨河区一部)、臨河(今の臨河区一部)、 臨戎(今の磴口県一部)、三封(今の磴口県一部)、窳渾(今の磴口県一部)、呼遒、渠搜、大城、修都の 10県城が築城された。

バヤンノール市

前漢王朝は、これら遊牧民族の居留地域に多くの漢民族らの移民を奨励し、農地開墾を進める。 こうした政策が功を奏し、前漢末の 2年のころには、朔方郡には 34,338 戸、人口 136,628 人にまで 人口規模が拡大されていたらしい。
もう片方の五原郡は、16県を管轄しており、それらは、九原、臨戎、河陰、曼柏、武都、南舆、 固陽、西安陽(今の ウラド前旗一部)、河目(今の ウラド前旗一部)、宜梁(今の ウラド前旗一部)、 成宜(今の ウラド前旗一部)、広牧(今の 五原県)などである。

しかし、後漢王朝の初期より匈奴民族の南下が徐々に始まり、後漢末には朔方郡と五原郡の 維持が不可能となり、廃止される。三国時代にあっては、南匈奴で内部対立が激しく なっており、魏の曹操は匈奴族を破って、その領土を一定程度、北部へ押し返している。

三国時代を平定した西晋も太平の世を維持することがかなわず、すぐに南北朝時代、 五胡十六国時代へと時代は動く。華北地域に勢力をはった 北魏王朝(同じ遊牧騎馬民族の鮮卑族が建国)は、この匈奴地域の 統括機関として懐朔鎮と沃野鎮の 2鎮を設置している。時代は下って、唐代初期には豊州に 帰属したものの、唐王朝の国力低下にともない、中期以降は、その勢力圏を維持できなくなり、 北部民族に奪われている。

また、バヤンノール市東部地区は、遼、金、夏王朝の時代に帰属されていたが、その西側一帯は 西夏王国に属することになった。
元朝の時代、陰山南部一帯は大同路の雲内州の管轄下に置かれ、陰山北部一帯は德寧路に 帰属した。これら両方は中央政府の中書省が直轄することとなる。

明代初期には一部が山西東勝衛と隴西寧夏衛によって管轄されていたが、モンゴル軍の侵攻が 度々続き、すぐに北元国の領土下に入った。その後も、明とモンゴルとの戦闘は続き、 争奪戦が繰り返される。
清朝の時代の 1648年、ウラド前旗、ウラド中旗、ウラド後旗が設置された。 そして、清末の 1903年に、五原庁が開設された。
中華民国時代は五原県、綏遠特别行政区に帰属し、中華人民共和国成立後に 内モンゴル自治区が成立し、この下にバヤンノール市が入った。


なお、このバヤンノール市一帯は、モンゴル軍や遊牧民族らと中原王朝が 度々、戦闘を交えたところであるが、基本は高原地帯で、今日まで残る城壁都市らしいものは建造されていなかったようである。

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