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河北省滄州市 ~ 人口 775万人、 一人当たり GDP 49,000 元


 ➠➠➠ 滄州市の城跡リスト ➠➠➠  クリック

  浮陽県城(浮陽郡城、清地県城、滄州城、景城郡城)
  長芦県城(長芦鎮城、景州城、景城郡城、散州城)
  【三国志遺跡】袁紹の墓(滄州市滄県高川郷)



【 滄州市の歴史 】

滄州市はかつて古代の幽州と兖州に分かれて帰属された。

西周時代には青州に組み込まれ、春秋戦国時代期には燕国、斉国、晋国、趙国など目まぐるしく為政者の変遷を見ることとなる。
秦代、巨鹿郡と洛北郡に統括され、前後漢時代には、冀州と幽州に分かれて管轄された。

前漢時代には、浮陽県(県役所は今の滄州市滄県旧州鎮東関村に開設)が新設され、幽州渤海郡に帰属された。

滄州市

後漢朝から三国時代を経て、東西晋朝の治世まで、浮陽県は冀州渤海郡の統括を受けた。

なお、後漢末期の動乱期、董卓の策略で渤海郡太守に任命されていた袁紹が当地に割拠したが(189年)、中原への勢力拡大を企図し、新興勢力の公孫瓉と冀州牧の韓馥との抗争をあおり、これに乗じて冀州全域の奪取に成功する(191年)。浮陽県城が設置されていた、現在の滄州市一帯にも袁紹はその足跡を残したに違いない。上地図。


時は下って、南北朝時代の北魏朝の統治下の487年、渤海郡と章武郡の一部から浮陽郡が新設され、郡役所が浮陽県城内に開設される(瀛州に帰属)。下地図。
517年には、滄州が新設され、浮陽郡、楽陵郡と安徳郡の3郡を統括した。滄州市エリアは、この時代、瀛州と冀州に分かれて所属した。

滄州市

また、北周朝の治世下の580年、今の滄州市中心部に長芦県が新設される(章武郡に帰属)。下地図。

隋代初期、浮陽郡が廃止され、その行政区は河間郡と渤海郡、平原郡に分かれて編入される。598年には浮陽県が清池県へ改称される。下地図。

また同時期、長芦県城を郡都とする漳河郡(600年には景州へ改称)が新設される。 606年には景州が廃止され、滄州の管轄区に組み込まれる。翌607年には滄州も廃止され河間郡へ再編入された。

滄州市

唐代に入った618年、渤海郡が滄州(清池県城が州都を兼務)へ改称される(河北道に帰属)。 662年、長芦県城(今の滄州市新華区)を州都とする景州が復活設置され、清池県はここの管轄区に組み込まれた。
742年、滄州が景城郡へ改称され(758年に再び滄州へ戻される)、郡役所は長芦県城から清池県城(今の滄州市滄県旧州鎮東関村)へ移転される。
その管轄域は、今の天津市中心部より南側で、滄州市東光県と山東省徳州市寧津県、山東省濱州市無棣県などの北側一帯にまで及んだ。下地図。

滄州市

五代十国時代、清池県は滄州景城郡横海軍節度に帰属した。

北宋時代には、清池県は河北東路滄州景城軍節度に統括される。 後に、滄州は景城郡へ改称されるも、後に廃止となる(河北東路河間府に管轄された)。同時期の964年、長芦県が長芦鎮へ降格され、その行政区が清池県へ編入される。下地図。

滄州市

元代には、清池県は中書省河間路滄州景城郡の下に配される。 1314年5月には、滄州の州役所が長芦県(長芦鎮から再び昇格)城内に開設される。清池県を統括した。
元朝末期の1358年、農民反乱軍(紅巾軍)が滄州城(長芦県城)を占領すると、元朝は州役所を一時的に清池県城へ移転させている。

明代には、北直隷省河間府の管轄下に置かれた。後に、今の河北省保定市に開設された北平行中書省(北平布政司)に統括されることとなる。
1369年、滄州の州役所が長芦県城(今の滄州市中心部)へ再移転され、同時に清池県が廃止される。

滄州市

清代初期、滄州(長芦県城:上絵図)は直隷省河間府(1725年に直隷州へ昇格)に、1731年には散州へ改称され、天津府の管轄下に組み込まれた。清代を通じて、大部分は河間府に、一部が天津府に統括された。

中華民国が建国された翌1913年に、滄州が滄県へ改称される(直隷省渤海道に帰属)。 1936年には滄県は河北省の直轄に組み込まれる。


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