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河北省承徳市 ~ 人口 370万人、 一人当たり GDP 39,000 元


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  熱河王宮(清王室の避暑宮殿、熱河庁、熱河総管、承徳府)
  松亭関(万里の長城の関門要塞の一つ)



【 承徳市の歴史 】

承徳市一帯では、中原龍山文化期の古代人類の生息が確認されているという。

商(殷)朝時代、及び周王朝時代には、山戌族や東胡数らの少数民族らが割拠する地域となり、後に燕王の勢力圏に組み込まれることとなる。
承徳市の中心部から東へ約150kmの地点にある凌源県海島營子村では、数多くの西周時代の銅器が発掘されているという。

戦国時代期、承徳市エリアは燕国下の漁陽郡、右北閏郡、遼西郡の3郡に分かれて統括された。
当時、燕国により市内一帯に長城が築かれたわけであるが(下地図)、今日ではほとんど現存していないという。また当時すでに、鉄製の農器具などが使用されていたことも判明している。

承徳市

中国東北地方と華北平原との間の山脈地帯に位置する承徳市は、漢族、匈奴族、烏桓族、鮮卑族、庫莫奚、契丹、突厥、モンゴルなどの諸民族が入り乱れ割拠してきた土地柄であり、兵火必至の場所となってきた。
現在の承德市寛城満族自治県の中心部から南西25.4kmにある喜峰口は切り立った渓谷となっており、ここに古代から関所が設けられてきた。すなわち、松亭関である。下はイメージ図。

承徳市

承徳市

遼朝の時代、松亭関(喜峰口)は燕京(今の北京市)と中京(今の内モンゴル自治区赤峰市寧城県の西部)間の移動に際し、必ず通過しなければならないルートであった。この山脈上には古代より長城が存在しており(上地図の赤線)、防衛上の要を形成していた。

下地図は、遼朝を追い詰める金軍の進軍ルートを示す。金軍は松亭関にも攻撃を加えているが攻め落とせず撤退し、最終的に張家口ルートから燕京(今の北京市)へ攻め込んでいることが分かる。

承徳市

明代に燕王・朱棣(後の第3代皇帝の永楽帝)が北平に駐屯していたころ、寧王の朱権への攻撃にあたり、 1399年10月、劉家口(現在の河北省秦皇島市蘆龍県の北34km)より北上し、深夜に移動して大寧城を陥落させ、周囲の朶額三衛(1389年に設置された朶額衛と泰寧衛、福余衛の3拠点)をも占領することに成功する。その勢いで松亭関(喜峰口)の関門も落とし、北方の憂いを絶つこととなったわけである。最終的に靖難の変に勝利した朱棣は、3年後の1402年に第3代皇帝に即位する。下地図。

承徳市

明代以前の元代より、この松亭関(喜峰口)を含む、今の承徳市一帯は北平府(今の北京市)の直轄下に置かれてきた。特に元代には、モンゴル族の諸部族(喀喇沁や、翁牛特、察哈爾など)の游牧地として活用されていた。
結局、清代初年に至るまで、今の承徳市一帯には一度たりとも県役所などが開設されることもなく、知さな集落地が点在する荒れ野でしかなかった。

しかし1703年、清朝によりこの地に王宮の建設が開始されると、移民が流入し、人口が急増することとなる。1708年、その熱河王宮が完成し、皇族らが避暑地として実際に居住するようになると、熱河地区の発展が本格化する。

承徳市


承徳市

史書によれば、1711年ごろにはすでに農地開拓も進み、周囲にいくつも巨大集落が形成されていたという。

これ以降、皇帝が毎年、避暑のために当地を訪問・滞在することとなり、これに随行する各部族出身の王侯貴族や、朝廷内の諸大臣、その他の高級官僚や学者らがその邸宅を建設するなど、承徳市一帯の開発が急速に進んでいく。
1723年に熱河庁が新設され、翌年には熱河総管へ改編され、特に山東省方面より移民してきた農民、商人らの監督行政を司ることとなる。

承徳市

1733年、第5代皇帝の雍正帝(胤禎)が先祖の功績を讃えて、熱河庁を承徳直隷州へ昇格させる。
この時、史上初めて「承徳」の名称が登場した瞬間となった。
1741年以降、続く第6代皇帝の乾隆帝(弘歴)が避暑のため熱河宮へ頻繁に行幸するようになり、承徳市一帯は最盛期を迎える。
1778年、承徳府へ昇格される。この頃には、王都の北京に次ぐ重要都市にまで成長しており、塞外京都(王都外の王都)と別称されることとなる。
一年のうち半分は、清朝皇帝は当地で行政を執行し、少数民族の諸王や外国使節などと謁見している。下絵図。

承徳市

1810年、熱河都統署が新設される。
1827年以降は、熱河に滞在する文官、武官は共に都統署に所属することとされ、清朝廷の直属下に置かれた。
1856年~1860年のアロー戦争時には、北京に攻め寄せる英仏連合軍から退避すべく、第9代皇帝の咸豊帝はこの熱河宮へ避難し、北京の王宮(紫禁城)と円明園は徹底的な略奪と破壊を受けることとなる。

辛亥革命により清王朝が崩壊すると、全国的に府制が廃止されるに及び、1914年に熱河特別区が新設され、1929年には熱河省へ再編される。承徳市が熱河省の省都に選定される。
1933年、承徳市にも日本軍の進軍が至り、満州国の一部に併合されることとなる

承徳市



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