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内モンゴル自治区赤峰市 ~ 人口 460万人、 一人当たり GDP 40,000 元


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  中京大定府城



【 赤峰市の歴史 】

赤峰市には、中国全土でも有名な古代文明遺跡がある。
この地では、8150~7350年前の新石器前期の興隆洼文化(農耕・狩猟採集の定住文明であった)、 7150~6420年前の新石器中期の趙宝溝文化、 6660~4870年の新石器中後期における紅山文化、 5300年ごろ前の新石器後期の富河文化、 5000~4870年前の新石器後期の小河沿文化、 4500~4200年前の新石器後期および北方青銅器時代初期の夏家店下層文化の存在が確認されており、黄河流域の中原文明にも劣らない古代文化がすでにこの地でも同時代的に展開されていたことが証明されている。

なお、この地域は古代より、商族、東胡族、匈奴族、烏桓族、鮮卑族、庫莫奚族、契丹族、モンゴル族などの北方遊牧系民族らの活動領域となっていた。
夏王朝~商~周~春秋時代、まず商族と東胡族らが最初に生息していた。
戦国時代に入ってからは、商族が駆逐され、完全に東胡族の領土と化す。

秦王朝の初期、赤峰市の南部は燕国と遼西、右北平郡に帰属し、北部は東胡族の活動域、後にその末裔にあたる烏桓族の版図下に入っている。
後漢末から三国時代にかけては、これらの民族は駆逐され、全域が鮮卑族の領有となる。
三国時代を統一した西晋王朝はその太平を長くは維持できず、すぐに南北朝時代が始まる。中原が再び内戦となる中、赤峰市一帯は最初は引き続き鮮卑族が占有していたが、後に、北朝側で政権を握る後趙、前燕、前秦、後燕、北燕王朝の支配下に入ることになった。しかし、北方にて力を蓄えた鮮卑族が建てた北魏王朝はついに漢民族王朝を追い払い、さらに華北全土を勢力圏に治めるまでに拡大する。その後、東西魏に分かれ、引き続き、鮮卑族の皇室が権力を握った東魏に引き継がれるも、北斉や北周王朝に取って変わられることになる。

赤峰市

隋朝、唐朝の時代、赤峰市一帯は饒楽都督府と松漠都督府の二つの管轄下に分かれて入ることになった。
11世紀、この地域に勢力を張った契丹族の長「耶律阿保機」により、遼王朝が建国される。王都は上京臨湟府ー現在の赤峰市巴林左旗南波羅城ー(後に中京大定府―現在の赤峰市寧城県―へ遷都)に定められた。この遼王朝も200年後、女真族の金王朝に滅ぼされ、その空白地帯である内モンゴル区内に多くのモンゴル諸部族が移住してくることになった。
元王朝時代の赤峰市一帯は、中書省と遼陽行省の大寧路、全寧路、応昌路、上都路の下に置かれた。
明王朝の時代、最初は大寧衛、全寧衛、応昌衛に帰属し、後に兀良哈三衛に帰属された。
清代になると、赤峰市の大部分は昭鳥達盟に属し、南部の一部分のみ卓索図盟に属すことになる。

中華民国時代、および、日本による満州国統治時代には、熱河省に帰属されていた(市域の北部は興安西省に帰属)。戦後、中華人民共和国が建国されてからすぐに、内モンゴル自治区に入る。

赤峰市

なお、現在の赤峰市市街区は近代以降に開発された都市であるため、遺跡はない。
かつて契丹族の王都であった中京大定府(上京臨湟府より遷都されてきた)跡は、赤峰市中心部から南へ70kmにある寧城県の西はずれにある。現在はのどかな農村地帯が広がるばかりであるが、「遼中京博物館」も設置され、その王都の過去の繁栄に思いをはせることができる。所々の地名には、かつての名残が生々しく残されていた。城門顔、城後西村、城後東村、城里村、南城村、鉄匠営子村(かつての鍛冶屋街があった場所)、肯営子村(軍隊に従事する兵士らの居所があった)。


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