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遼寧省丹東市 ~ 人口 246万人、 一人当たり GDP 22,000 元


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  軍事要塞「泊溝」跡



【 丹東市の歴史 】

春秋戦国時代、燕国の支配下にあり、遼東郡の東端に位置した。秦朝もこの行政区域を継承する。前漢時代、大遼河の左右で分割され、新たに遼西郡が新設された。丹東市一帯は引き続き、遼東郡に帰属し、 その下の西安平県と武茨県に帰属した。後漢末の三国時代においても、この地名は継承される。三国時代の当初、この地は公孫氏の勢力圏下にあったが、 魏の司馬懿により238年に滅ぼされると、魏領に帰属する。しかし、北方にあった高句麗勢力との関係が 悪化し、この 西安平県一帯へ高句麗軍の侵入を受けている。その報復として魏軍は2度の高句麗遠征を実施し、 大いに領土の拡大に成功する。

時代は下って、唐建国の618年ごろには、すでに丹東市の南40kmにある東港市に、軍事要塞「泊溝」が設けられていたようである。当時は、遼寧省一帯は高句麗の領土となっていた(404年~)。唐朝の第二代目皇帝「太宗」は高句麗討伐軍を起こし、遼東半島に陸海から大軍を差し向けた。結局、高句麗軍により長期戦に持ち込まれ、冬の到来前に撤兵を余儀なくされて失敗する。その後、 3度目の遠征(668年)でようやく高句麗を滅亡させている。

丹東市

唐の第三代目皇帝「高宗」は、遼東半島一帯を平定後、すぐに安東都護府を設置している。

契丹族の遼王朝の統治時代、宣州、開州、穆州と来通城が設置された。女真族による金王朝の時代、婆速府路(今の丹東市振安区九連城鎮)の管轄下に入っている。元王朝の時代には婆娑府が設置され、続いて明王朝の時代、遼東都指揮使司に下に置かれた。
1616年に女真族を統一し後金を建国したヌルハチは、1618年、対明領への侵攻を開始する。明と同盟関係にあった朝鮮との関係を分断すべく、この丹東市の北側を占領後、鴨緑江の支流である叆河の合流地点から鳳凰県城(今の丹東市鳳城)に至るラインに柳条辺壁という防策網を構築し、これより西側での農業、漁業、牧畜、採集などの活動を一切禁止するという経済封鎖政策を実施し、 現在の丹東市一帯から南部の海岸戦にかけて大きな経済的ダメージを与えることに成功している。 1621年には、明王朝の遼東地区の拠点であった遼陽城と瀋陽城を陥落させ、遼東半島一帯を平定した。

丹東市

清王朝は明の滅亡後、中原へ進出し、北京を王都として大帝国を作り上げる。遼東半島地区は長年の戦乱によって、大きく人口が減少しており、1689年以降、山東省、河北省一帯から漢民族に移民奨励策を実施した。しかし、満州方面への移民は固く禁じたままとし、満州族の自治経済圏を守り通そうとするも、清末の1874年、ロシアの南下政策に対抗すべく、この人口希薄地であった満洲一帯への移民制限が解禁され、以後、満州地域へ多くの漢族が移住していくことになった。
朝鮮方面から進出を試みる日本勢や欧米列強に対抗すべく、 1876年、丹東市地区に安東県と岫岩州県、翌年には寛甸県も新設された。それらの管轄機関として開設された鳳凰庁がこの地域の開発、防備を司る最高機関と位置づけられる。

中華民国成立後も、そのままの行政制度が踏襲されていたが、日中戦争が始まる柳条湖事件の後、この安東県と鳳凰庁は日本軍に真っ先に占領され、満州国建国に伴い安東省が新設された。戦後の1965年、安東市は丹東市に改称されている。

丹東市

なお、丹東市街区であるが、 交易都市として集落は古くから形成されていたが、 軍事要塞は存在していなかったようである。
一方、この丹東市の南40kmにある東港市には、高句麗の領有時代にすでに軍事要塞「泊溝」が 設けられていた。かなり海側に築城されていたようで、海防拠点としても 機能した。しかし、現在は全く跡形も残されていない。順達路沿いがかつての土塁跡であった のではないだろうか。


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