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甘粛省定西市 ~ 人口 270万人、 一人当たり GDP 6,000 元


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  定相城(定西県城、定西州城)
  狄道県城(隴西郡城)



【 定西市の歴史 】

定西市の歴史は長い。黄河文明発祥の地の一部を成し、新石器時代の有名な馬家窑文化や斉家文化、寺洼文化、辛甸文化が花開いた場所である。また、シルクロードのルート上にあり、欧米やアジアをつなぐ重要な交易拠点の一つとしても栄えた。

紀元前279年、秦国は隴西郡を設置し、郡役所を狄道(今の臨洮県)に置く。今日の定西市全域はこの管轄下に入っていた。郡役所の狄道は、付近を流れる隴水の西部にあったので、「隴西」と称されるようになる。
その後、定西市一帯は長らく隴西郡や秦州に帰属した。

五胡十六国時代、度々、この地は群雄による戦場と化した。当時、定西市一帯を支配した王朝もめまぐるしく変わる。前凉、後凉、前趙、後趙、前秦、後秦など。
南北朝時代においては、定西市一帯は二分されて秦州と河州に属することになった。
北魏王朝の530年、渭州が設置される。隋代の618年、臨洮郡を改めて岷州が設置された。唐代の742年、岷州から和政郡へ変更された。その後、758年、岷州へ戻されている。

761年、吐蕃国(チベット族)に岷州を攻略され、その後、臨州も陥落する。引き続き、吐蕃国は渭州まで進出し、これを奪取している。かつては世界帝国を築いた唐王朝も、安史の乱の後、大幅に国力を減退させており、中央アジアはおろか、西域一帯を統括する力も失い、逆に西域民族らにその領土を西から徐々にはぎとられていった。この地を占領した吐蕃国の統治は、 300年以上にも及ぶことになる。

北宋時代の1081年、時代は変わって、西域一帯を支配していた西夏王朝の勢力を排除し、 漢民族の宋が再奪取することに成功する。
改めて、西部地域を再平定した宋王朝の神宗により、「定相城」が建設される(今の定西市中心部)。これが、「定西」の地名の始まりとなる。1216年には、定西県が定西州へ昇格された。
元王朝の時代、定西に代わって、隴西行省が設置される。
1352年、この地で大地震が発生する。定西州から安定州へ改名される。

明代の1377年、州から県へ降格された。以降、明、清王朝を通じて、定西県は隴西承宣布政使司鞏昌府に帰属する。
清滅亡後、中華民国の1914年、安定県から定西県へ変更され、今日に至る。

定西市

なお、この定西古城であるが、今日では完全に城壁も撤去されており、かつての面影もわずかな路地名に残されているのみである。北城巷、小北街、大南街。

定西市

これに対し、秦国により隴西郡役所が設置された狄道(今の臨洮県)古城跡の方が、多くの路地名が残り、かつての城郭都市の外観を実感しやすい。西関(西門あたり)、糧食市(かつての庶民の食堂&市場通り)、北大街、東大街、灰塩市、老西街、南街村(かつての城外にできた郊外集落)、西街村、北街村。

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