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湖北省恩施トゥチャ族ミャオ族自治州 ~ 人口 410万人、 一人当たり GDP 15,000 元


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  恩施県城(土歸流、施州衛、施南府城)
  宣恩県城
  来風県城
  咸豊県城
  利川県城



【 恩施トゥチャ族ミャオ族自治州の歴史 】

春秋時代期には巴子国の版図下に、戦国時代期には楚国の領土下にあった。
紀元前221年に秦により中原が統一されると、黔中郡が新設され、恩施自治州エリアはここに帰属された。

前漢朝の時代には、南郡と武陵郡に分かれて管轄される。下地図。

恩施トゥチャ族ミャオ族自治州

三国時代においては、最初は蜀に、後に呉の領土となり、建平郡(260年に宜都郡から分離・新設―南陵県、信陵県、巫県、秭歸県を管轄)と 武陵郡に分かれて所属した。

西晋、東晋時代から南北朝時代の宋、斉、梁、北周朝の治世下にかけては、建平郡、天門郡、武陵郡、信陵郡、秭歸郡、 業州軍屯郡、清江郡に統括される。

隋代には巴東郡下の巴東県と清江郡下の清江県、開夷県、建始県に分かれて所属した。下地図。

恩施トゥチャ族ミャオ族自治州

唐代においては、今の恩施州一帯は歸州巴東県、施州下の清江県と建始県に分かれて管轄された。

五代十国時代、後蜀の版図下に置かれるも、北宋により後蜀が滅ぼされると、北宋帝国に組み込まれる。このとき、歸州巴東県、施州清江県、建始県、および辰州、富州、高州、定州の一部として統括された。

元代には、歸州巴東県、施州建始県、そして南部の少数民族地区で導入された土司制度の下、散毛、唐崖、金峒、龍潭、忠建、毛峰、施南などの土司の統括区にばらばらに管轄された。

元朝晩年の混乱期、明玉珍が蜀地方を支配した際にも、元代の行政区が継承される。下地図。

恩施トゥチャ族ミャオ族自治州

明代に入ると、夔州下の建始県、歸州下の巴東県、施州衛、そして南部地区には引き続き、土司制度が採用され、有容美宣慰司、施南、散毛、忠建の3つの宣撫司と9つの安撫司、そして13の長官司と5つの蛮夷長官司が設置された。

清代も明代の行政区が継承される。清朝中期の1728年、施州衛が廃止され、恩施県が新設される。

1735年には土歸流が施南府へ改編され、その下に恩施県、宣恩県、来風県、咸豊県、利川県を統括することとされる。下地図。
翌1736年には夔州下の建始県が施州に編入され、一方で巴東県と鶴峰州が宜昌府の管轄下へ転出される。

恩施トゥチャ族ミャオ族自治州

清朝が滅び、1912年に中華民国が建国されると、1916年に荊南道が新設され(翌年に施鶴道へ改名)、恩施県城内に道役所が併設される。その下に恩施県、建始県、宣恩県、来風県、咸豊県、利川県の6県が配された。1917年に鹤峰州が、 1923年に巴東県が施鶴道へ編入され、今日に続く8県体制が成立することとなる。

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