BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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四川省 広安市 ~ 人口 470万人、 一人当たり GDP 26,000 元


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  始安県城
  漢初県城
  恒升古城



【 広安市の 歴史 】

この街を、何よりも有名にさせているのは、鄧小平の生家がある、ということであろう。彼の実家は、もともと地元で裕福な客家系の地主であったらしい。 16歳までこの地で過ごし、その年にフランス留学する。第一次大戦直後のフランスではあまり教育を受ける機会を得ず、主に生活費のためアルバイト中心の生活となっていたようである。フランスに渡って 2年後の 1922年、中国少年共産党に入党する。そして次第に頭角を現し、 3年度後の 1925年、中国共産党ヨーロッパ支部の指導者となった。翌年、フランス政府より国外退去を命ぜられ、モスクワヘ移住。さらに翌年の 21歳の時、中国に帰国し、ゲリラ活動に没頭していく。
ちなみに、鄧小平はこの 16歳で故郷を出て以後、地元には一度も戻っていない、ということだ。

広安市


さて、広安市の歴史であるが、大河の渠江沿いの交易都市を成していたようである。

最初、梁州に帰属し、殷王朝時代には雍州、周王朝時代には、武王が派遣した王族傍系による巴子国の建国にともない、これに属する。紀元前 316年、秦の恵文王が張儀、司馬錯らを派遣し、巴蜀両国を滅ぼす。その際、蜀郡と巴郡が設置され、今の重慶市である江州を郡都とする巴郡の管轄下して広安市は編成されることとなった。
ただし、これらの時代も含め、行政の中心地としての役割は一切、設置されていないようで、前漢時代に新設された宕渠郡の管轄下となるも、その郡役所は、宕渠、すなわち 現在の達州市渠県の東北部に設置されていた。
三国時代の蜀統治下でも、宕渠郡とその郡都の宕渠は存続されていた。
かつての広安市域は、あくまでも渠江沿いの辺境の一集落としての位置づけであったらしい。

そして時は下って 200年後、すなわち 南北朝時代の南斉朝の治世下の 479年、墊江より北側一帯が分離され、漢初県が新設される(県役所は、現在の武勝県に開設)。さらに、40年後の梁王朝の治世下の 522年、前漢時代より継承されてきた宕渠県が廃止され、始安県が設置されるに至る。ここに現在の広安市が行政都市として歴史に登場することとなった。
唐王朝の時代、一時的に「恒升古城寨」という、現在の広安区恒昇鎮古城村に県役所が移設されたこともある。そして北宋時代、初めてこの地は「広安」と名付けられたのだった。以後も、度重なる所属地や地名の変更が繰り返されていく。

広安市>

広安市のかつての城壁は、すべて撤去されてしまっている。

しかし、かつての城郭都市の様子は、今に残る路地名から、だいたいの規模や位置関係を推察することができる。城墙街、北街、小東街、大東街、東門街、学街、新南街、水塘堡街 など。

広安市は、水資源が豊富で、水力発発電のためのダムが数多く設置されていた。


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