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湖北省黄石市 ~ 人口 250万人、 一人当たり GDP 37,000 元


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  大冶県城(青山場院)
  鄂県城(戦国時代期の楚の鄂王城跡、三国時代に武昌県へ変更:孫権の居城となる)



【 黄石市の歴史 】

西周時代の紀元前879年、楚第9代君主の熊渠が長江中流域に割拠した揚越族(中原から見た蛮族の一種)を討伐し、 鄂の地(今の鄂州市と黄石市大冶市一帯)をも勢力圏に取り込み、その子の熊紅を鄂王に封じる。 現在の黄石市一帯はこの楚国内の鄂王の封国下に組み込まれた。
熊紅は着任後すぐに、今の黄石市大冶市に鄂王城を築城し、その王都に定める。
紀元前877年に熊渠が死去すると、熊紅がそのまま即位し、鄂王城を楚国全体の新王都とした。 以後、熊咢の治世まで6代に渡って、楚の王都として君臨することとなる。

春秋時代下の紀元前770~前476年には、楚国の王都・郢(今の湖北省宜昌市枝江市江陵県)に次ぐ、副王都とされる(下地図)。

黄石市

しかし、その王都・郢も、紀元前279年、秦国の昭襄王が派遣した白起の攻撃を受け陥落し、楚国は王都を寿春城へ移転する。 このとき、秦国により南郡の東側から江南一帯にかけて江夏郡が新設されている。
江夏郡は鄂県、下雉県などの14県を統括することとされる。今の黄石市エリアは鄂県下に置かれた。

最終的に紀元前223年、秦は楚国を完全に滅ぼし、紀元前221年には中原の統一に成功することとなる。

時は下って、三国時代。
221年、孫権は自身の居城を公安県城から鄂県城(今の鄂州市)へ移転する(229年に建業へ再遷都される)。
あわせて、鄂県(前漢時代に設置されていた)は武昌県へ改称され、さらに鄂県の南部が分割され、陽新県が新設される。
このとき、武昌郡下には武昌県、下雉県、陽新県、柴桑県、沙羡県、潯陽県の6県が配された。現在の黄石市は、武昌郡下の武昌県(今の鄂州)と陽新県の間にあった下雉県の県域に属していた。下地図。

黄石市

222年に夷陵の戦いで蜀軍の侵攻を、さらに同年冬に魏の曹丕による攻撃を受けるも、呉の孫権は耐え忍び、 最大の危機を脱する。この翌223年、呉の孫権は武漢市の東岸の蛇山(黄鵠山)に築かれていた夏口城をさらに大規模修築し、 防衛網の強化に努めた。あわせて、武昌郡役所が王都の武昌県城から、この夏口県城へ移転される(このとき、武昌郡は江夏郡へ改称される)。
現在の黄石市エリアは、江夏郡下の武昌県と陽新県に分かれて管轄された。

280年、西晋朝により呉も滅ぼされ三国が統一されると、江夏郡が再び、武昌郡へ戻される。
武昌郡下には武昌県、柴桑県、鄂県、陽新県、沙羡県、沙陽県、高陵県の7県が配された。

このとき、黄石市エリアは、武昌県、鄂県、陽新県の3県に分かれて帰属された。
しかし、間もなく鄂県(楚の鄂王城跡を利用した県城)が廃止され、武昌県に合併されると、武昌県と陽新県の管轄域となった。

東晋時代の317年、豫州(武昌県城が州都)から江州が分離・新設され、384年に江州役所が潯陽県城内へ移転される。

黄石市

412年には、下雉県が廃止され、陽新県に吸収合併される。このときも、現在の黄石市域は、武昌県、陽新県に分かれて帰属された。

南北朝時代の宋の知世下の589年、陽新県が富川県へ、さらに永興県へ改称される。黄石市エリアは鄂州下の武昌県と永興県に帰属された。この行政区が、以後、五代十国時代の南唐の治世まで継承されていくこととなる。

時は下って、唐朝末期、南部の九カ国で農民反乱が勃発して以降、現在の黄石地一帯は呉国の版図下に組み込まれた。

黄石市

905年、その呉王であった楊行密が永興県と武昌県の一部を分離して青山場院を設置する。同時に、この地での鉱山開発がスタートされる。

呉国が滅びた後も、鉱山事業は晋、漢、後周、南唐の各王朝によって継承される。

南唐第3代国王であった李煜の治世下、この地域の鉱山開発に伴い精錬産業が大発展を遂げる。青山場院は武昌県下の3郷を吸収合併する形で、大冶県へ昇格される。
この地名は、古代の殷商時代から続く精錬の地「大興炉冶」という言葉から命名されたとされる。

黄石市

これ以後、北宋時代から中華民国まで、黄石市エリアは、 興国路、興国州、武昌府、湖北省下の大冶県に帰属されることとなった。


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