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江西省九江市 ~ 人口 480万人、 一人当たり GDP 35,000 元


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  尋陽県城(潯陽県城、江州城、湓城県城、彭蠡城、尋陽郡城、九江府城)
  柴桑県城(尋陽郡城、江州城、尋陽県城、徳化県城)
  彭澤県城(龍城県城)
  暦陵県城
  艾県城
  海昏県城
  鄡陽県城
  豫寧県(豫寧郡城、武寧県城)
  星子県城(南康軍城、西寧府城、南康府城)



【 九江市の歴史 】

古代の夏王朝、商(殷)王朝の時代、九江市一帯は荊州、揚州の地に帰属されていた。春秋時代には呉国、続いて楚国の版図下に組み込まれ、通称、呉頭楚尾の地と呼称されていたという。

戦国時代期でも、争奪戦の主要戦場となった。紀元前473年に越国が呉国を滅ぼすと、越国の治世下で設置された番(pó)邑と艾邑の2つの行政庁が管轄することとなり、その管轄範囲は現在の九江市エリアを凌駕する広大なものであったようである。
紀元前334年、楚国が越国を滅ぼして以降は、楚国領に組み込まれる。

紀元前223年、その楚国も秦国の総攻撃により滅亡する。秦はすぐに旧楚領の統治のために3郡を新設する。そのうちの一つである九江郡が現在の江西省の大部分を統括することとなった。当初、その郡役所は寿春県城(今の安徽省寿県)に開設された。

中原統一を成功させた秦国の治世も長くは続かず、紀元前206年に滅亡する。直後に勃発した楚漢戦争を経て、中国を再統一した劉邦が紀元前202年に前漢朝を建国する。

九江市

その翌年の紀元前201年、九江郡から豫章郡が分離・新設され、郡役所が南昌県城内に開設された。豫章郡の下には18県城が設置され、そのうちの6県城が今の九江市域に該当した。すなわち、彭澤県城(今の彭澤南西部)、暦陵県城(今の徳安)、柴桑県城(今の九江市中心部から南西にある九江県の旧市街地)、艾県城(今の修水渣津付近)、海昏県城(今の永修東部)、鄡陽県城(今の都昌南部)。
また第五代皇帝の文帝の治世下の紀元前164年、淮南に蘆江国が新設され、その下に12県が配される。このときに、新たに築城されたものの一つが尋陽県城(当初、長江の北岸側にあった)であった。今の九江市域の一部を統括することとされる。

後漢朝時代の104年には海昏県から建昌県が、185年ごろには艾県から西平県が、 185年には海昏県から永修県と新呉県(今の奉新)の2県が、分離・新設される。また後漢末期の199年には、艾県と海昏県の一部から西安県が分離・新設される。
下の地図は、後漢末期の江南地方の平定戦における孫策の進軍ルートを表している(赤色→)。

九江市

三国時代の赤壁の戦い前夜、呉の孫権は柴桑県城(今の九江県旧市街地)に駐屯し、ここで劉備より派遣された諸葛亮孔明と謁見し、孫権・劉備連合軍が決定されたわけである(下地図)。

九江市

その後も当地は呉領下に属し、九江市エリア一帯はそれぞれ4郡に分かれて帰属されていた。すなわち、武昌郡(柴桑県を統括)、豫章郡(艾県、海昏県、建昌県、永修県、新呉県、西安県、彭澤県)、鄱陽郡(鄡陽県と暦陵県を統括)、蘆江郡(尋陽県を統括)の4郡があったとされる(221年以降)。

しかし、呉も280年についに西晋朝に降伏し、三国時代は終焉する。西晋の司馬炎はすぐに旧呉領の再編に取り掛かり、その一環で同年中に、西安県が豫章県へと改称される。
西晋二代目皇帝の治世下の291年、揚州の豫章郡、鄱陽郡、蘆陵郡、臨川郡、南康郡、建安郡、晋安郡と、荊州の武昌郡、桂陽郡、安成郡の10郡がまとめられ、江州(州役所は豫章県城内【今の南昌市】に開設)が新設される。

304年には蘆江郡尋陽県と武昌郡柴桑県が分離され、尋陽郡(郡役所は尋陽県城に開設)が設置される(そのまま江州に所属)。このとき、尋陽県城が郡都としてデビューすることとなった。309年には軍事上の都合から、長江の南岸側へ尋陽県城が移設される。これが現在の九江市中心部の発祥となったわけである。

東晋時代の330年ごろ、尋陽郡の郡役所と尋陽県役所が尋陽県城から柴桑県城(南西側にある現在の九江県)へ移転される。いったん、ここで尋陽県城は廃城とされる。 しかし、340年、江州役所が豫章県城から尋陽県城へ移転され、尋陽郡役所も再移転されてくる。このとき、尋陽県城内には州役所、郡役所、県役所の3行政庁が同時併設されることとなった。
412年、尋陽郡は江州郡へ改称され、また同時に尋陽県城は廃止され、その行政区は南西側の柴桑県城へ移転された。

九江市

南北朝時代の宋朝の治世下の421年、鄡陽県が廃止され彭澤県へ、424年には暦陵県が廃止され柴桑県へ、翌425年には海昏県が廃止され建昌県へそれぞれ編入されている。

続く、南朝の梁王朝治世下の548年、太原橋郡が新設され、晋陽県、和城県、天水県、彭澤県(郡役所を併設)の4県を統括することとされる。柴桑県から汝南橋県が分離・新設され、尋陽郡の郡役所は柴桑県城から湓城県城(尋陽県から改名されていた)へ移転されてくる。
557年には、豫寧郡が新設され、艾県、建昌県、永修県、新呉県、豫寧県(郡役所が併設)の5県を管轄するととなる。

隋代の583年、彭澤県が龍城県へ(598年に彭澤県へ戻される)改称される。また589年、太原郡が廃止され、晋陽県と和城県、天水県、彭澤県の4県が合併されて、龍城県となる。他方、豫寧郡が廃止され、永修県と豫寧県、新呉県、艾県の4県は建昌へ吸収され、同じく柴桑県と汝南県の2県も廃止され、尋陽県(後に彭蠡県、彭城県、湓城県へ改称。今の九江市中心部)に編入される。
607年には、江州郡が廃止され九江郡へ改称となり、豫寧県が復活・再設置される。

九江市

唐代の621年には湓城県(現在の九江市中心部)から潯陽県(今の九江県旧市街地:かつての柴桑県城)が、622年には楚城県が分離・新設される。このとき、江州(郡から州へ変更された)の管轄下には、湓城県、潯陽県、彭澤県の3県が配された。 682年には建昌県が分割され、新呉県が復活設置される。704年、さらに建昌県から武寧県(一時期、豫寧県へ改称される)が分離・新設される。 800年には、さらに武寧県から分寧県が分離・新設された。

五代十国時代の南唐朝の治世下の927年、蒲塘場が昇格され、徳安県となる。 937年には建昌県、武寧県、奉新県の3県から分離されて、靖安県が新設される。続いて、湖口戍が湖口県へ昇格され、江州が奉化軍となり、赤鳥場が瑞昌県へ、潯陽県が徳化県へと改名された。

北宋朝が南唐を滅ぼした975年以降、江南の地も北宋領に組み込まれる。978年、星子鎮が星子県へ昇格され、この星子県と、都昌県と建昌県の3県を統括する行政庁として、982年には南康軍が新設される(軍役所は星子県城内に開設)。

九江市

南宋、北宋の時代、江州の管轄下として、九江市エリアの各県城(徳化県、徳安県、瑞昌県、湖口県、彭澤県の5県が置かれ、また、南康軍の下には星子県、都昌県、建昌県の3県が配された。また、分寧県(一時、寧県へ改称されていた)と武寧県は洪州に帰属された。

元代には、江州が江東西宣撫司(翌年、江西大都督府へ、翌々年には江州路へ改編)へ、南康軍が南康路へと改称されるも、管轄行政区は宋代のものが継承された。1286年には武寧県が寧州へ昇格され、分寧県と武寧県の2県を統括することとなる。 1295年には、建昌県が建昌州へ昇格される。
元末の1361年、朱元璋が江州を攻撃し占領すると、江州路を九江府へ、南康路を西寧府(翌年にさらに南康府へ)へ改編する。

九江市

明代初期の1370年、建昌州と寧州が降格され、それぞれ建昌県と寧県に戻される。また、1376年に江西行省内が5道の行政区に分割され、その中の九江道の下に九江府、南康府、饒州府の3府が含まれた。このとき、九江府の下には徳化県(現在の九江市中心部)、徳安県、瑞昌県、湖口県、彭澤県の5県が、南康府の下には星子県、都昌県、建昌県の3県が置かれ、寧県(1503年に寧州へ再昇格される)と武寧県は南昌府の統括下に配された。
1518年、建昌置から安義県が分離・新設され、南康府の管轄下に組み込まれた。

清代も、明代の行政区がそのまま踏襲された。
1801年、寧州が義寧州へ改称される。清末の1854年、一時期、この地を占領した太平天国軍により、湖口県が九江郡へ、九江府が江西省へ改称されるも、清軍により制圧後、元来の名称へ戻される。

九江市

1912年に清朝が滅び、中華民国が建国されると、全国的に府制が廃止される。同時に、義寧州が義寧県へ降格される。 1914年当時、江西省の下には4道と81県が置かれており、現在の九江市一帯が属した潯陽道の下には20県が配されていた。同年、道役所と県役所の同一名義を避けるべく、徳化県が九江県へ、義寧県が修水県へ、建昌県が永修県へ改名される。 1926年に蒋介石の率いる国民党の北伐軍が江西省一帯の軍閥を平定し、正式にこの地域を中華民国に編入後、道制を廃止し、各県が同列に江西省の直轄とされる。

九江市

なお、現在の九江市中心部にあった尋陽県城(江州城、九江府城)跡であるが、今日においては、城壁や城門などの遺構は全く残されていない。かつての城郭都市時代の記憶がわずかに路地名や地名などに刻まれている程度であった。環城路、昭忠祠、東門口路、東門口スーパー、北司路など。

なお、尋陽県城内に三国時代の呉の孫権が掘り起こした井戸跡(通称:浪井とも瑞井とも言われる)が残されている。今は庾亮楼として観光地化されている。また、赤壁の戦いの翌209年には、呂蒙が尋陽県令として赴任している。当時はまだ尋陽県城は 長江の北岸側にあったことから、呂蒙の赴任は北岸側であろうが、孫権の井戸跡が南岸側に残されているということは、対岸の南岸側にも集落、もしくは兵士の駐屯施設が配備されており、 ここに孫権が立ち寄ったと考えるのが妥当であろう。

また、周囲は湖と河川が複雑に入りくむ地形で、附近には複数の県城があったようである。柴桑県城(今の九江市中心部から南西にある九江県の旧市街地にあった)や瑞昌鎮城(赤壁の戦い前夜、孫権は程普をここに駐屯させた。当時は赤鳥鎮と呼称されていた)など。 歴史を振り返れば、九江市エリアの行政の中心都市は時に尋陽県城、時に柴桑県城と交互に司ってきたようである。


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