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山東省聊城市 ~ 人口 595万人、 一人当たり GDP 37,000 元


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  【初代】聊城県城(聊城邑、聊摄国の王都跡、西聊県城)
  【2代目】聊城県城(平原鎮城、【2代目】平原郡城、博州城、博平郡城)
  【3代目】聊城県城(巢陵城)
  【4代目】聊城県城(【2代目】博州城、東昌府城)
  朝城県城
  陽谷県城
  東阿県城   魏の名将・程昱の故郷
  平陰県城
  高唐県城   後漢末の191年に劉備が県長官に就任、魏の名将・朱霊の封地(県候)
  清県城(楽平県城)
  発干県城   関羽捕縛の第一功績者で、呉の名将である潘璋の故郷
  東武陽県城
  【初代】茌平県城
  【2代目】茌平県城(鼓城)
  博平県城   曹丕の時代、魏の相国(宰相)になった華歆の封地(県候)
  陽平県城
  東武陽県城   呂布の参謀役・陳宮の故郷
  堂邑県城
  臨邑県城
  冠県城



【 聊城市の歴史 】

聊城市の市名は、かつて付近を流れた聊河より命名されている。

春秋時代の後期、聊城市一帯には聊摄国が存在した。しかし、後に斉国に滅ぼされ、その王都跡地に、聊城邑(今の聊城市東昌府区閻寺鎮申李庄の東部にある聊古廟【聊崮廟】)が新設される。以後、斉国の西部防衛の重要拠点の一つとなる。下地図。
市域の一部は、衛国と晋国にも帰属された。

聊城市

戦国時代期の紀元前284年、燕の名将・楽毅(昌国君)を総大将とする燕国・趙国・韓国・魏国・秦国の5カ国連合軍が斉国に侵攻し、半年間のうちに、王都の臨淄城を陥落させ、莒城と即墨城の2城以外の70余りの全ての邑城を占領するに至る。下地図。
当時の湣王(田氏の第6代君主)は、莒城に逃げ込み籠城を図るも、宰相の淖歯により間もなく暗殺される。こうして斉国は大いに領土と国勢を失ってしまう。
しかし、莒城内で即位した襄王(田氏の第7代君主)と、即墨城の守備を委ねられた田単(斉国皇族の末裔)により、6年にも及ぶ長期籠城戦が続けられる中で、燕国の将軍・楽毅が罷免され、代わりに騎劫が大将軍として全軍を指揮するも、かえって斉国に反撃され、瞬く間に70余城が再奪還されてしまう。こうして、斉国は元々の国境ラインの回復に成功するのであった。

聊城市

最終的に紀元前221年、秦の始皇帝により斉国も滅ぼされ、中原が統一される。直後より、全国に郡県制が導入され、中央集権体制の確立が図られる。その一環で、聊城邑が聊城県へ改編され、また一方で、茌平県(今の聊城市茌平県韓集郷高垣墙村)が新設される。共に東郡に帰属した。

前漢時代に入ると、新たに清県と発干県の2県が設置され、聊城県や茌平県と共に東郡に属された。

第7代皇帝の武帝により、全国が13州に区分されると、東郡は兗州に組み込まれた。聊城市の一部は冀州下の魏郡と、青州下の平原郡にも属された。下地図。

聊城市

後漢時代に入ると、清県が楽平県へ改称される。

後漢末期の191年、黄巾の乱平定戦での戦功により、劉備は高唐県(今の聊城市高唐県)長官に就任していたが、間もなく黄巾族との再戦に敗れ、公孫瓚の配下に帰参する。公孫瓚と協力し袁紹軍と戦い、その戦功により、平原県(今の山東省徳州市平原県王廟郷張官店東街村)長官に就任する。翌192年に、対袁紹で同盟関係にあった袁術の要請により、劉備は再び高唐県長官に復職している。翌193年、同じく対袁紹での同盟関係にあった徐州牧の陶謙が曹操の攻撃を受けた際、劉備も加勢し、そのまま徐州に駐屯して、翌194年、陶謙の死にあわせて徐州牧に就任することとなる。 聊城市一帯は、まさに劉備が出世街道を駆け上がるステージとなった地であった。下地図。

三国時代も後漢時代の行政区が継承される。
当時、一帯は曹魏の領土下に組み込まれた。聊城県(今の聊城市東昌府区と茌平県の一帯を統括)は青州下の平原郡に、楽平県(今の聊城市莘県、冠県、臨清県一帯を管轄)は司州下の陽平郡に、その他は冀州下の清河郡(一時期、清河国へ改編)、そして兗州下の東郡に属した。下地図。


聊城市

西晋時代、平原郡が平原国へ改編されるも、配下の行政区はそのまま曹魏時代のものが存続される。すなわち、以下の8県―平原県(郡都を兼務。今の山東省徳州市平原県王廟郷張官店東街村)、高唐県(今の聊城市高唐県)、般県、鬲県、祝阿県、湿陰県、安徳県、西平昌県―を統括した。
現在の聊城市東阿県と陽谷県の一帯は、周囲に新設された済北国と東平国に一部に組み込まれた。上地図。

南北朝時代も基本的には西晋朝の統治体制が踏襲される。この頃、茌平県役所が鼓城(今の聊城市茌平県楽平鋪鎮)へ移転される(引き続き、済北国に帰属)。

北魏朝の治世下の422年、現在の聊城市東昌府区の東20kmの地点に、平原鎮城が新たに築城される(下地図)。当時、南の劉宋朝との国境地帯に位置した。しかし、宋朝の内紛に付け込んで、北魏は領土を南に拡大し、防衛拠点としての意味合いが薄れることとなる。その一環で、499年に平原鎮の鎮役所が廃止され、この鎮城跡を利用して、平原郡と聊城県の役所が移転されてくる。

525年ごろ、聊城県(旧平原鎮城)の西部一帯が分離され、西聊県が新設される。西聊県城は、かつての聊城県城跡(今の聊城市東昌府区閻寺鎮申李庄の東部にある聊古廟【聊崮廟】)が活用される。この西聊県と聊城県は共に平原郡に属された。

聊城市

北斉朝の時代、楽平県と発干県、茌平県が廃止され、聊城県に吸収合併される。

南北朝が統一された隋代の586年、平原郡と西聊県が廃止され、聊城県の西部には堂邑県が新設される。また一方で、興利鎮(今の聊城市茌平県杜郎口鎮杜郎口村)が茌平県へ昇格される(貝州清河郡に帰属)も、隋末に再度、興利鎮へ降格される(聊城県に帰属)。
596年、博州が新設され、聊城県が州都に選定される。

605年、博州が廃止されると、聊城県は武陽郡(魏州に所属)へ移籍された。その他のエリアは、清河郡(貝州に所属)と済北郡(済州に所属)に統括された。

聊城市

唐代の621年、博州(一時期、博平郡に改編)が復活設置されると、聊城県城に州都が開設される。同時に、聊城県から再び、茌平県が分離・設置される(627年に聊城県に再編入)。
その他のエリアは、河北道貝州下の清河郡、河北道魏州下の魏郡、河南道済州下の済陽郡(後に鄆州下の東平郡へ移籍)、河南道鄆州下の東平郡に統括された。

五代十国時代、最も暗愚な国王が即位し続けた後梁朝において、最高の名将軍と謳われ、現代中国でも名豪傑の一人として称賛されている王彦章(863~923年)は、この地で後唐と対戦し、敗北して捕縛され、降伏を拒否し刑死している。下地図。
彼の死はそのまま後梁朝の滅亡を意味し、923年、同王朝は3代16年の短命に終わる。

聊城市

後晋朝時代の945年、聊城県の県役所が巢陵城(今の聊城市東昌府区の南東7.5km)内へ移転される。

北宋時代の992年、黄河で大氾濫が起こると、聊城県の県役所と博州の州役所が孝武渡西城(今の聊城市東昌府区の中心部)へ移転されてくる。博州はそのまま聊城県と堂邑県の2県を統括した。その他の市域は、河北東路大名府下の魏郡に、京東西路東平府下の東平郡の管轄下に配された。

また、1130年に茌平県(今の聊城市茌平県の中心部)が復活設置されると、同じく博州に帰属された。
1070年、孝武渡西城(現在の聊城市中心部)に大規模な土壁城壁の改修工事が加えられる(最終的に明代の1372年に煉瓦積み城壁に移行)。

聊城市

遼朝、金朝も北宋の統治体制をそのまま踏襲する。
元代初期、聊城県は東平路に帰属されるも、 1267年に東平路から博州(1276年に東昌路総管府へ改編)が分離・新設されと、以前と同様に、聊城県城がその州都(東昌路総管府の府都)に選定される(山東省に帰属)。

明代の1368年、東昌路が東昌府へ改編されると、引き続き、聊城県城が府都を兼務した(山東省に帰属)。東昌府下には、聊城県(府都を兼務)、堂邑県(明代に聊城県の西部から復活設置)、茌平県などが配された。
市域の南部は、兗州府下の東平州に属した。下地図。

聊城市

清代も、基本的には明代の行政区がそのまま踏襲される。上地図。
現在の聊城市東昌府区、茌平県、高唐県(後に高唐州へ昇格)、平軒県、莘県、冠県、臨清県(後に臨清州へ昇格)は東昌府に、東阿県と陽谷県は南に隣接する兗州府に属した。

中華民国が1912年に建国されると、山東省下では府制が廃止され、道制が導入される。
1913年、聊城市一帯は済西道(道役所は聊城に開設)に所属された(1914年に東臨道へ、1925年に東昌道へ改称)。聊城県城は引き続き、道の中心都市を兼務した。最終的に1928年、全国で道制が廃止され、全県が山東省の直轄となる。


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