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遼寧省遼陽市 ~ 人口 186万人、 一人当たり GDP 40,000 元


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  遼陽府城(襄平城、遼東城)
  昌黎県城
  白岩城



【 遼陽市の歴史 】

遼陽市域を流れる太子河流域には、7000~6000年前の石器時代の遺跡がいくつも発見されており、古代からの人類の生息が確認されている。中原が夏、殷、周王朝の時代、この地には遊牧民族であった東胡族と、戦乱を避けて遼東半島へ避難してきた漢民族らが混在し居住しつつも、平和な土地柄を形成していた。中原王朝の力が増すにつれ、北部に営州が設置されて、統治が試みられるも、引き続き、管理の行き届かない地域も多かったとされる。周の時代、さらに幽州が新設される。このころから、稲作や織物業などが漢民族移民によりもたらされ、民族融合と経済開発が進められていく。
春秋時代が終わって、戦国時代に入ると、華北平野の北東部に勢力を張った燕国の昭王は、紀元前284~279年にかけて、秦開を将軍として遠征軍を派遣し、東胡族の領土や衛氏朝鮮を攻め、その領土の拡大に成功する。その後、この地の統治機構として、遼東郡が設置された。あわせて、襄平県も開設される。その郡役所、県役所ともに、襄平城に置かれることになり、それが今日の遼陽市の発展の基礎となった。
紀元前226年、秦は燕国へ攻め入り、その王都であった薊城(今の北京市)を占領する。燕国の太子丹は王都を放棄し、遼東郡襄平城まで逃走する。それから5年後に、この地にも秦軍が押し寄せ、燕国は滅亡するに至る。紀元前221年、秦の始皇帝は全国統一が成ると、全土を36郡に区分けし、行政制度を整備する。遼東半島一帯に関して、燕国の統治形態をそのまま踏襲し、遼東郡が置かれ、襄平県がその中心都市とされた。

前漢王朝の時代、上記の秦の統治体制が継承されることになった。遼東郡役所は襄平城内に設置され、襄平県、居就県、新昌県、無慮県、望平県、房県、侯城県、遼隊県などの18県を管轄した。
後漢王朝の時代、引き続き、遼東郡役所は襄平城内に置かれ、11県を管轄するものとされた。このころ、四方に城門を持つ城壁(土壁であった)都市内は30万人以上もの人々が住む活気ある都市に成長していたという。当時の遼東半島では最大都市となっていた。

後漢末の189年、遼東太守であった公孫度(襄平県出身)が遼東候として独立し、平州牧を自称するようになる。その後、遼東郡を遼東郡、中遼郡、遼西郡の3郡に分ける。遼東郡は襄平県、居就県、安市県などを管轄することになった。公孫度の後を継いだ公孫淵は燕王と称するようになり、内政とともに外交政策にも力を入れた。当時、魏に服属しつつも、他方では呉の孫権とも内密な朝貢関係を結んでいた。
諸葛亮孔明が234年に五丈原で死去の後、魏朝内では司馬懿の力が絶大なものとなっていた。魏の文帝曹丕の長男として二代目魏王を継いでいた曹叡は、238年、この司馬懿に命じて、遼東の公孫淵を討伐させる。司馬懿軍は遼隧(現在の遼寧省海城市)にて公孫淵軍を撃破し、本拠地であった襄平城を包囲した。この当時は、すでに大都市となっていた襄平城には、兵力も人口も非常に多かったため、食料不足が発生し、公孫淵親子は脱出を図るも途上で捕縛され、斬首されてしまう。襄平城に入城した司馬懿は、公孫氏旧領にいた政府高官や役人、軍人らの多くを処刑してしまう。元来、この地方に住む人々は、中原の戦乱を逃れてきた人々の子孫も多く、素直に中原王朝の魏に服従するのは困難であると判断したためと言われている。
西晋王朝時代の276年、平州が新設された(遼東、玄菟、昌黎の3郡を統括)。その州役所は最初、昌黎県城(今の義県)に開設されたが、後に襄平県城へ移転される。
西晋王朝下の太平の世も長くは続かず、すぐに華北地域一帯で内乱が勃発する(五胡十六国時代のはじまり)。 319年、鮮卑族の慕容魔が前燕国を建国し、遼東郡襄平城を占領する。大遼河より東側の一帯を遼東属国として分離させている。前燕王朝の治世下、平州が遼東、遼西など10郡を管轄することになる。州役所はやはり最大都市であった襄平城に開設された。 333年、慕容魔が死去すると、その息子の慕容皝が後を継ぐ。このとき、遼東国の王都を襄平城とした。しかし、380年に、前秦により前燕が滅ぼされ、この一帯は前秦の領土となる。当地での行政制度はそのまま踏襲された。それから4年後に慕容皝の子である慕容垂が兵を挙げ、前秦を駆逐して後燕国を建国する。 404年、北にあった高句麗が遼東半島に侵攻し、後燕国は滅亡する。襄平城を占領した高句麗は、「燕国」にゆかりのある地名を変更し、遼東城へと改名する。高句麗の治世下、以後、200年近く、戦乱のない太平の世を謳歌することになった。それまでの魏の公孫淵討伐、五胡十六国時代の騒乱で、遼東郡襄平城は常に戦争に巻き込まれ、荒廃してしまっていたが、ここから急速な回復を見るようになる。

遼陽市

隋王朝は3度、高句麗の支配下にあった遼東半島への侵攻を企てるも、いずれも撃退される。続いて、645年、唐の初代皇帝太宗(李世民)は大軍を率いて遼東半島へ親征してくる。唐軍は陸海から攻撃し、遼東城(今の遼陽市中心部)、白岩城(今の燕州城)を攻略している。そして3度目の遠征となった668年、ついに唐軍は高句麗の首都「平壤」を陥落させることに成功する。その後、高句麗旧領を監督すべく、「平壤」に安東都護府が設置される(676年に遼東城へ移転)。
遼国が遼東半島を占領していた時代、遼東城は遼陽城へと改名され、東京遼陽府として副国都に選定されている。金王朝も同じく東京遼陽府を設置し、この地を副王都として扱った。元朝の時代、遼陽等処行中書省がこの地に開設された。明王朝の時代、山東承宣布政使司の下に遼東都司が置かれ、やはりこの地に役所が置かれている。ウルムチの後金国は遼東半島を占領後、一時期、この遼陽城に王都を遷都するも、城内には多くの漢族らが居住していたため、その城外に新しい城を築城している。いわゆる、東京城である。しかし、3年後に、瀋陽市へ再遷都された。最終的に、清王朝が北京へ遷都した後、この地は遼陽州となり、盛京将軍(後に奉天省へ改名)の管轄となった。 このまま近代を迎えることになる。清末にはロシアによる南満州鉄道の敷設が行われ、遼陽はその交通の要衝として、さらなる発展を遂げることになった。
1904年の日露戦争時、この大都市をめぐって日本陸軍12万とロシア軍15万が1か月にわたる攻防戦を繰り広げたことで有名となる。

遼陽市

なお、長きに渡り遼東郡の役所が置かれ、かつ、明代の遼東地方の鎮守府であり、後金国のフルハチも一時、その王都を置いた襄平(遼陽)古城であるが、今日では西側と南側に堀川が残り、かつての城郭都市の規模を虚実に物語ってくれている。しかし、完全に城壁は撤去されていた。それでも、かつての面影は旧市街地の路地名に数多く残されていており、かつての記憶を身近に感じさせてくれる街であった。東門路、東大街、西大街、西順城路、南順城路、小南門橋、三義廟胡同、陳家胡同。硝堡街。河の上流方面の防備として、北側には外城も設けられていたようである。


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