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山西省臨汾市 ~ 人口 445万人、 一人当たり GDP 34,000 元


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  平陽城(平陽県城、平陽郡城、白馬城、平河県城、晋州城、臨汾県城、平陽府城)
  汾西県城
  襄汾県城(襄陵県城)



【 臨汾市の歴史 】

夏王朝から商王朝の時代、度々遷都が繰り返された王都はすべて黄河流域に集中したことから、 黄河文明圏が地上世界における中央国家という意味で、「中国」という名称が誕生することとなる。
今の臨汾市域では、商(殷)王朝の堯王が平陽城(今の臨汾市中心部【尧都区】)に王都を開設している(冀州に所属)。

続く西周朝の時代、第2代国王であった姫誦(成王)が実弟の姫虞を唐(今の臨汾市翼城県一帯)の地に封じ、唐国を建国させる。唐王となった姫虞は、唐叔虞と尊称された。彼の死後、姫虞の後を継いだ息子の姫燮は王都を先の平陽城へ遷都している。
当時、王都の平陽城が晋水(平水)の河畔にあったことから、国号が唐から晋へ変更される。下地図。

臨汾市

春秋時代期も、現在の臨汾市一帯は晋国の版図下に組み込まれた。上地図。

晋第23代君主の文公(在位:紀元前637~前628年)は北の霸王を称し、南の大国・楚を撃退するなど晋国の最盛期を体現して、春秋五覇の筆頭に数えられる傑物であったが、この当時の晋国の中心地は、汾河沿いと浍河沿いの一帯にあった。すなわち、今日の臨汾市中心部の南部に広がる、曲沃県、侯馬市、襄汾県の一帯である。当時、平陽邑、羊舍邑、高梁邑などの城塞都市が設置されていた。

臨汾市

春秋時代も末期となると、晋国の朝廷は家臣らの合議制で運営されるようになっており、皇室(羊舌氏)は有名無実化していた。そして、ついに紀元前453年、この家臣団の内紛に勝利した韓、趙、魏の 3つの領主国により、晋本国の領土自体が分割されるに至る(以後、時代区分としての戦国時代がスタート)。この後も、晋皇室は紀元前376年まで存続し続けるも、最終的に韓と魏の連合軍により滅ぼされる。
戦国時代期の大部分を通じ、韓はその王都を平陽城内に開設した。後に、西の大国・秦により度重なる軍事侵攻を受け、その都度、王都は東側の陽翟城、新鄭城へと移転されていった。

ついに紀元前230年、秦の始皇帝により韓全土が武力併合されるに至る。直後より、その旧領地には郡県制が導入された。このとき臨汾市一帯は、河東郡と潁川郡の管轄下に分かれて組み込まれた。

臨汾市

紀元前206年に秦王朝を滅ぼした項羽は覇王を称し、功績のあった軍閥らを各地の王に封じる(上地図)。このとき、旧魏国の皇室であった魏豹が西魏王に封じられた。

しかし、その論功行賞を巡り全土で項羽に対する不満が高まり、各地で反乱が勃発するようになる。時を同じくして、漢中から劉邦も出撃する。
劉邦により大将軍に任じられた韓信の率いる漢軍は、紀元前205年、西魏王の魏豹(平陽城が本拠地)を攻め滅ぼす。下地図。
劉邦は当地を自身の直轄領とし、河東郡を再設置する。 このとき、平陽城跡に平陽県(今の臨汾市尧都区金殿鎮)が開設されている。
そして、最終的に楚漢戦争に勝利した劉邦により、紀元前202年、前漢朝が建国されるのであった。

臨汾市

王莽による新王朝の統治時代、平陽県は香平県へ改称されるも、後漢朝が復活されると平陽県へ戻される。後漢時代、司隷校尉部の河東郡の管轄下に置かれ、平陽侯国に帰属した。

時は三国時代。河東郡平陽県がそのまま継承され、魏領下に組み込まれた。
なお、当時、北方から南下して河東郡一帯に割拠するようになっていた匈奴勢力は、軍事討伐された曹操に 帰順する形で漢族らと共存していたが、203年初、袁尚に任命された河東郡太守の郭援、および幷州刺史の高幹の支援を受けた 匈奴単于(呼廚泉)が再びを反乱を起こし、平陽県城を占領してしまう。
曹操は鍾繇を派遣し平定の任に当たらせる。鍾繇は当時、関中に勢力を張っていた馬騰に援軍を要請し、馬超と龐徳の救援軍とともに、 匈奴単于(呼廚泉)を破り、再び帰順させることに成功する。

魏第3代皇帝の曹芳の治世下の247年、匈奴勢力に対する支配体制を強化すべく、平陽県城(今の臨汾市中心部【尧都区金殿鎮】)を郡都とする平陽郡が新設される。下地図。

臨汾市

280年に三国を統一した西晋王朝も八王の乱をきっかけに内乱状態に陥り、この機に乗じて、北方民族らが大挙して中原へ攻め込んでくる。 304年に蒲子県城を王都とし前趙を建国していた劉渊により、309年10月、平陽県城へ王都が遷都される。 以降、平陽県城内には豪華絢爛な宮殿が造成されていった。しかし、317年2月、石勒が平陽城を占領し、宮殿もろとも焼土と化してしまう。 最終的に329年、前趙が滅ぼされ、石勒により後趙が建国されるに至る。


こうして南北朝時代、特に河北一帯は五胡十六国時代に突入し、めまぐるしく支配王朝の変遷を見ることとなる。前趙(漢)、後趙、前燕、前秦、西燕、後秦、後燕、東魏、北斉、北周などが建国されては滅びるも、この間も、引き続き、廃墟から復興した平陽郡と平陽県が踏襲されていった。
最後の北魏の治世下で、唐州(528年に晋州へ改称)が新設される。州役所は、白馬城(今の臨汾市中心部【尧都区】)内に開設された。あわせて、白馬城は平陽県城へ改称される。

南北朝時代を統一した隋朝は581年、平陽郡を平河郡へ、平陽県を平河県へ改称する。そして最終的に583年、平河郡は臨汾郡へ、平河県は臨汾県へ変更される。 このとき命名された臨汾の地名が今日まで沿用されていくこととなる。

臨汾市

唐代初期の618年、臨汾郡が晋州へ改編される。
続く、五代十国時代から宋代に至るまで、この行政区が踏襲される。

宋代の1116年、晋州(臨汾県城)が平陽府へ昇格される。平陽府下には、臨汾県、汾西県、洪洞県、岳陽県、郷寧県、趙城県、霍邑県、浮山県、冀氏県、和川県の10県と隰州、吉州、絳州の3州が所属された。 1220年には、臨汾県の河西地区が分離されて平水県が新設された(最終的に明代に廃止され、再び臨汾県に吸収合併される)。

金代もこのまま継承され、河東南路平陽府(府役所は臨汾県城内に開設)が踏襲された。
元代には、河東南路平陽府が中書省平陽路総管府(後に中書省山西宣慰司晋寧路へ変更)へ改編される。

臨汾市

明代に平陽府が再設置され、35の州城と県城を統括した。その行政区は、今の臨汾市、運城市の2つと、晋中市霊石県と呂梁地区石楼県にまで及んだ(山西布政使司河東道に帰属)。
上地図は明末期の李自成の反乱軍の侵攻ルート。平陽府城一帯も戦火に巻き込まれた。

清代も引き続き、明代の行政区が継承される。
当時、平陽府は1州と10県を統括した。すなわち、臨汾県(州都を兼務。今の臨汾市尧都区)、洪洞県、浮山県、岳陽県(今の臨汾市古県)、 曲沃県、翼城県、太平県(今の臨汾市襄汾県)、襄陵県(今の襄汾県)、汾西県、郷寧県、そして吉州(今の臨汾市吉県)である。


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