BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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山東省 臨沂市 ~ 人口 1,090万人、 一人当たり GDP 34,000 元


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  開陽県城(琅琊郡城、琅琊国の王都跡)
  郯県城(郯国の王都跡、郯郡城、東海郡城、【初代】徐州城、東海国の王都跡、郯城郷城)
  蒙陰県城(新泰県城)
  【初代】朐県城   蜀の建国の 功臣・麋竺と 麋芳の故郷
  新泰県城(平陽邑城、平陽県城)
  即丘県城(【初代】沂州城)
  臨沂県城(【2代目】沂州城、沂州府城、蘭山県城)
  【初代】蘭陵県城    後漢末、朱儁が県長官に就任
  費県城
  東安県城
  沂水県城
  華県城   三国時代、魏の重臣である臧覇の故郷、曹操の 父・曹嵩ら一族の虐殺の地
  陽都県城  三国時代、蜀の丞相となる諸葛亮孔明の故郷



【 臨沂市の 歴史 】

臨沂市の歴史は古く、中華文明の発祥の地の一つとも指摘される。
40万~50万年前には既に古代人類が生息し、20万年前の旧石器時代には文字や記号の使用が確認されているという。
現在の沂河と沭河の流域一帯には、1万~2万年前に精製された石器類が数多く発掘されている。
そして、早くも 5000年前には、酒造りや 砭石(ベンセキ)を用いた漢方治療などが行われていたという。

商(殷)王朝の時代、臨沂市エリアでは 徐国、郯国、莒国、費国などの小国家群が割拠した。
西周の武王が 商(殷)王朝を滅ぼし、 魯国と斉国が封国として新設されると、東方支配の重鎮としての任務を委ねられる。
当時、臨沂市一帯は、斉国と魯国以外にも、規模の小さな 顓国、陽国、向国、莒国、郯国(今の 臨沂市郯城県)、根牟国、於餘丘国、杞国などが存在した。下地図。

臨沂市

春秋時代期には、さらに小国が乱立しており、上記の国々に加えて、啓陽国、中丘国、祝丘国、費国、防国、台国、東陽国、武城国、丘舆国、向国、次室国、蒙国、鄆国、堂阜国、盖国、艾国、紀障国、密国、鄢陵国などの 20か国が割拠した。上地図。

臨沂市

500年近い戦国時代を通じ、これらの小国群は徐々に掃討されていく。
紀元前 418年、郯国が越国に滅ぼされ、その領土は越国に併合される。上地図。
その越国も、紀元前 334年に楚国により滅亡する。
最終的には臨沂市エリアの南部は完全に楚国に、北部は斉国の版図下に組み込まれる。上地図。

秦代に入り、全国に郡県制が導入されると、 臨沂市一帯は琅琊郡下の 莒県(今の 山東省日照市莒県)と 薛郡、郯郡(すぐに廃止され東海郡に編入)、東海郡下の 郯県(今の 臨沂市郯城県)に分かれて統括された。

臨沂市

前漢時代に入ると、郡県制と封国制が同時併用される。この頃、郯県城(今の 臨沂市郯城県)は引き続き、東海郡の郡都を兼務し、後には徐州の 州都(紀元前 106年~)としても君臨した。
その他の臨沂市域は、同じく徐州下の琅琊国と城陽国、そして兗州下の泰山郡に組み込まれた。上地図。

臨沂市

漢王朝の復興を目指す 劉秀(後の光武帝)は、新朝末期に割拠した軍閥の掃討戦を展開する。上地図。

このとき、山東省一帯に割拠した董憲は、新陽の地に防衛ラインを張り、漢軍を迎え撃つも大敗し、昌慮県城(今の 山東省棗庄市滕州市羊庄鎮土城村)へ逃亡する。ここに籠城しつつ、河北省一帯で勢力を誇った 農民反乱軍(五校軍)に資金援助して、漢軍を後方から脅かす作戦に出るも、もともと食糧難に直面していた五校農民軍はすぐに撤退してしまう。こうして孤立無援となった昌慮県城は、劉秀の親征でさらに指揮の上がった漢軍の猛攻を受け、3日目で落城する。董憲は繒山を経て、東海郡の郡都であった 郯県城(今の 臨沂市郯城県)へ逃げ込むことに成功する。しかし、間もなく郯県城も陥落し、董憲は 朐県城(今の 臨沂市臨沭県)へと撤退する。しかし食糧難に陥った董憲は、琅邪郡下の 贑楡県城(今の 江蘇省連雲港市贑榆区)を急襲しようと図るも、途中で 琅邪郡(郡都は東武県城【今の 山東省濰坊市諸城市】)太守の陳俊により阻止され、降伏を決意するも、捕縛され処刑されるに至る。上地図。

後漢時代も前漢時代の行政区が踏襲される。徐州下の 利城郡、東海郡(郡都は郯県城)、琅琊郡(郡都は開陽県城【今の 臨沂市の中心部】。後に琅琊国へ改編)、および兗州下の 泰山郡、東莞郡、東安郡、城陽国にそれぞれ統括された。下地図。

臨沂市

後漢末期の 181年、後に蜀の丞相となる諸葛亮孔明が、徐州琅琊国の 陽都県城(秦代の紀元前 221年に設置され、東晋時代に廃城となる。今の 臨沂市沂南県磚埠鎮孫家黄疃村、大小汪家庄、里宏村の一帯)で誕生している。上地図。
孔明の 父・諸葛珪は、泰山郡の 副長官(丞相)を務めたが、孔明が幼少のころに死去し、孔明は弟の諸葛均と共に従父の諸葛玄に連れられて、南方の荊州へ移住することになる。

また 193~194年、兗州長官となっていた曹操は一族を虐殺された恨みから、陶謙が治める徐州への侵攻を開始する。下地図。
またたく間に、徐州の北部一帯が占領され、その州都であり、東海郡の郡都であった郯県城も落城するに至り、陶謙は州役所をより南部の 下邳県城(今の 江蘇省徐州市邳州市睢寧県にある下邳古城遺跡)へ移転させる。最終的に呂布に乗っ取られた徐州も、198年冬、曹操によって完全に平定される。
その直後、曹操により徐州の州役所が 下邳県城(今の 江蘇省徐州市邳州市睢寧県にある下邳古城遺跡)から 彭城県城(今の 江蘇省徐州市)へ移転される。上地図。

臨沂市

三国時代期もそのまま、曹魏の領土下に組み込まれた。
魏建国の功臣である臧覇の故郷は、泰山郡華県(今の 臨沂市費県方城鎮)とされる。曹操と袁紹一族が華北支配を巡ってしのぎを削る中、臧覇は琅邪国の宰相に任命され、青州・徐州の統治を実質的に一任されつつ、この方面から袁氏一族への攻撃を指揮した。

曹魏の末期、徐州下の 東海国(国都はそのまま郯県城)、琅琊国(国都は開陽県城)、東莞郡、および、兗州下の泰山郡の管轄下に帰属された。

また、この頃、春秋時代の紀元前 601年に魯国により開設されていた 平陽邑城(前漢時代に平陽県へ昇格されるも、後に廃止)の跡地に、新泰県が新設されている。

西晋時代も曹魏の行政区が継承されるも、南北朝時代に入ると、臨沂市一帯は 後趙、東晋、前燕、後燕、南燕、前秦、北魏など、為政者の目まぐるしい変遷に巻き込まれる。

臨沂市

南朝の劉宋朝の 治世時代(472年)、朐県(今の 臨沂市臨沭県)の県役所が今の 江蘇省連雲港市海州鎮へ移転され、朐山県へ改称される。南朝の斉国の治世時代には、東莞郡と琅邪郡の郡都を兼ねることとなる。梁朝の時代には招遠県へ、東魏朝の 時代(549年)には朐県へ、北周朝の 時代(577年)に朐山県へ変更された。
この時代、臨沂市一帯は常に、各王朝の国境最前線地帯となった。上地図。

臨沂市

特に、北周が北斉を滅ぼし、当地を併合すると、北徐州が沂州へ改称される(付近にあった沂河から命名)。州都は 即丘県城(今の 臨沂市河東区故県)に開設される。上地図。

隋代、臨沂市エリアは 沂州(琅琊郡)、泗州(下邳郡)、密州(高密郡)、海州(東海郡)、徐州(彭城郡)にそれぞれ統括された。郯県城は 泗州(下邳郡)に属した。
また、沂州(後に琅琊郡へ改名)の州役所が 臨沂県城(596年、即丘県から 分離・新設。漢代の旧開陽県城の跡地。605年に即丘県が廃止され、臨沂県に吸収合併される。今の臨沂市の中心部)へ移転される。
この時代、州下には 臨沂県(今の 臨沂市の中心部)、費県(今の 臨沂市費県)、顓臾県、東安県(今の 臨沂市沂水県下の後城子村と 黄崖頭村の一帯)、沂水県(今の 臨沂市沂水県)、莒県(今の 山東省日照市莒県)、新泰県(今の 臨沂市蒙陰県)の 7県が配された。

唐代には、沂州(臨沂県、費県【今の 臨沂市費県】、沂水県【今の 臨沂市沂水県】、承県【今の 山東省棗庄市嶧城区】、新泰県【今の 臨沂市蒙陰県】の 5県を統括)、密州(高密郡)、徐州(彭城郡)に分かれて帰属された。
627年、郯県が郯城郷へ降格され、旧県域は 下邳県(今の 江蘇省徐州市邳州市睢寧県にある下邳古城遺跡)に吸収合併される。810年ごろ、郯城郷は郯城県へ再昇格されるも、すぐにまた廃止され、臨沂県に編入されることとなる。

臨沂市

北宋時代には、沂州(臨沂県、費県【今の 臨沂市費県】、沂水県【今の 臨沂市沂水県】、承県【今の 山東省棗庄市嶧城区】、新泰県【今の 臨沂市蒙陰県】の 5県を統括)、密州(高密郡)、淮郡軍の統括下に置かれる。上地図。

金朝の治世時代、山東東路下の 沂州、莒州、邳州、泰安州に分かれて管轄された。
元代には、中書省山東東西道宣慰司益都路に属した。

臨沂市

明代初期は、元代の行政区がそのまま踏襲される。 1376年に行省が承宣布政使司へ改編されると、山東布政使司下の兗州府と 青州府(府都は 益都県城【今の 山東省濰坊市青州市益都街】)に分かれて統括された。
1368年、臨沂県の県役所が廃止され、同じ城郭内の 沂州(今の 臨沂市の中心部)の直轄地となる(済寧府に帰属)。以後、沂州の管轄下には、郯城県(1368年に郯城郷から再昇格)と 費県(今の 臨沂市費県)のみが配された。
1372年に済南府、1374年末に青州府に、1385年に兗州府の管轄下へ移籍される。下地図。

臨沂市

清代初期もそのまま明代の行政区が踏襲されるも、1724年に沂州は兗州府の管轄下から山東省の直隷州へ昇格される。続いて 1734年、沂州府(今の 臨沂市の中心部)へ昇格された。下地図。

棗庄市

同時期、莒州が 散州(配下に県城を有しない単体州)へ降格されると、莒州にかつて帰属していた 沂水県、日照県(今の 山東省日照市の中心部)、蒙陰県(今の 臨沂市蒙陰県)の 3県が沂州府の管轄区に組み込まれ、以後、1州と 6県、1衛を統括することとされる。
すなわち、莒州(今の 山東省日照市莒県)と 蘭山県(1734年に、沂州府の直轄地から新設。今の 臨沂市の中心部)、郯城県、費県、沂水県、蒙陰県、日照県、安東衛(今の 山東省日照市嵐山区の繡針河の河口部分)である。上地図。

中華民国が建国されると、翌 1913年、沂州府が廃止され、また同時に莒州が 莒県(今の 山東省日照市莒県)へ降格される。1914年には 蘭山県(今の 臨沂市の中心部)が臨沂県へ改称される。下地図。

臨沂市


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