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貴州省六盤水市 ~ 人口 287万人、 一人当たり GDP 31,000 元


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  盤県城
  郎岱県城
  水城県城



【 六盤水市の歴史 】

今日の六盤水市一帯は、春秋時代には牂牁国に帰属し、戦国時代に入ってからは夜郎国の領土下にあった。当時からすでに青銅器や鉄器を使用した奴隷制農奴社会が成立していたという。
秦国よる中原統一後、巴郡の漢陽県に帰属された。秦滅亡の混乱時、この地域に再び諸民族国家が乱立し、夜郎国なども復活するも、前漢王朝の武帝治世下の紀元前111年に、再び中原王権下に組み込まれる。このとき、現在の六盤水市一帯は、牂牁郡の夜郎県、宛温県、平敕県と犍為郡漢陽県、鄢県などに分かれて帰属されることとなった。また、あわせて中原から多くの漢族系軍人や農民の移民らが投入され、この地域の文化発展に大きく寄与されていくこととなる。
しかし、後漢王朝以後は移民屯田制が徐々に瓦解し、貧富の差が生じて地元豪族らが台頭してくる。彼らによって、貴州、雲南地域にも封建農耕社会が形成されていくこととなる。

六盤水市

後漢末に中原王朝の支配力が弱まる中、先住民の彞族による滇(現在の昆明市一帯)から東北側への移住が始まり、現在の六盤水市一帯や黔西の広大な地域に大きな波乱を巻き起こすこととなった。移住先では元々の先住民の濮人らと度々、武力衝突を繰り返し、彞族側が着実に占領地と封建的支配体制を拡大していった。

時は三国時代、今日の六盤水市一帯は「南中」と呼ばれる地域にあり、牂牁郡平夷県と興古郡宛温県に分かれて帰属されていた。
南北朝時代の東晋王朝末までこの体制が継承されていくことになる。

六盤水市

隋朝の時代、郡制度が州制度へ改編される。続く、唐王朝もこの隋時代の制度を継続した。唐代は、現在の市域のうち南部は盤州に、北部は湯望州に帰属された。この時代、中央王朝は地方を直接統治することなく、地元豪族を土官としてその封建支配体制を追認する形での間接統治が採用されていくことになる。
唐代の後半、盤州と湯望州は合併され覊縻州となる。力の衰えた唐王朝から五胡十国時代を経て、南宋王朝の時代にかけて、中央王朝が辺境部の統治を委ねていた土官らに「王」の称号を下賜し、彼らの力を借りて南诏国や大理国らに対抗しようとした。この当時、六盤水市一帯は少数民族が乱立する緩衝地帯にあたり、南に矢部族(自杞国)、東北に牂牁国(後に羅殿国)、北に羅氏鬼国らの三藩国が境界線を接していたという。

元王朝の時代、矢部族の地(自杞国)が矢万戸へと改名され、後に普安路総府となる。また羅殿国は普定万戸へと改編され、後に普定府となる。羅氏鬼国は八番順元宣慰司へと改名された。これら二府一司の首長は「蛮夷官」、すなわち、地元豪族が引き続き、土司として担当することとされた。土司により、その領民と領地が完全に掌握される体制が続くこととなる。

明代に入り、この地域もますます豊かになっていく。一方、明代中期には土官による間接支配体制が廃止され、中央政権から派遣された流官による直接統治方式へと、全国的な大改革が実施される。所謂、「改土帰流」政策である。同時期に、普安路総府は普安州へ、普定府は西堡官司へ、八番順元宣慰司は貴州(水西)宣慰司へと改名されている。この中央統治の強化により、ますます辺境地方での経済、文化発展が進展を見ることとなった。

清時代に入り、長く進められてきた「改土帰流」政策も完全定着され、地元豪族による支配から地主による農民支配へと大きな社会変革が進んでいく。当時の六盤水市一帯には、北に水城庁、東に郎岱庁、南に普安州が置かれていた。清朝も滅亡し、中華民国になってからは、水城県、盤県、郎岱県へとそれぞれ改編されている。

六盤水市

なお、現在の六盤水市中心部はこれまで城壁都市が設置されたことがなく、あくまでも周辺の郡や県に所属された一辺境でしかなかったようである。六盤水市盤県の城関鎮には、かつての県城が築城されており、現在は城壁や城門は全く残っていないが、地名や路地名にしっかりと当時の名残が刻み込まれていた。南門村、北門区、環城路、河濱路(かつての堀川跡)など。


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