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河南省漯河市 ~ 人口 310万人、 一人当たり GDP 37,000 元


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  郾城県城
  召陵県城(邵陵県城、【初代】潁川郡城、召陵鎮城)
  隠陽城(召陵邑城、奇雒城、「召陵の盟」の古戦場、【2代目】潁川郡城、殷城)
  三国時代、曹丕が後漢からの権力禅譲の式典を催した場所(三絶碑、受禅台、献帝廟)



【 漯河市の歴史 】

漯河市一帯では、新石器時代に早くも複数の集落地が形成されていたという。
特に賈湖遺跡の発掘調査から、8000年前にはすでに稲作や石器類の加工が確認されており、 さらに約4000年前には象形文字の使用が始まり、3000年前には音楽などの文化活動が行われていたことが立証されているという。

時は下って、春秋時代下の紀元前656年、斉国の桓公が筆頭盟主となった「召陵の盟」が締結された地として特に有名である。

漯河市

当時、南方の楚が勢力を強大化させ、中原方面へ度々、侵攻を繰り返していた。今の河南省の南部と西部に割拠した申国、息国、鄧国などを滅ぼし、さらに黄国と蔡国を服属させる一方で、楚は続いて鄭国への軍事侵攻を開始しようという最中に起こった事件である。

凋落した東周王朝に代わり、斉国の桓公が覇者として諸侯を束ねるようになっており、斉国、宋国、陳国、衛国、鄭国、許国、魯国、曹国、邾国の8か国が共同戦線を張り、楚国に帰順した蔡国へ進軍する。蔡国軍は戦わずして降伏し、また8か国連合軍との直接対決を避けたい楚は斉国の桓公へ使者を送り、和睦を図ることとなる。

一方で、楚軍は召陵の地で防衛戦線を張り、連合軍と対峙する。紀元前656年の春から夏にかけて戦線は膠着するに及び、両軍は撤兵に合意する。この撤退が決定された陣営内で、今後も引き続き、対楚連合を継続する盟約が交わされる。これが、「召陵の盟」と通称される対楚軍事同盟であった。下地図。

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この斉国の桓公を支えたのが時の宰相・管仲であり、彼の存命中、斉国はこの盟主協定を保持し続けたが、紀元前645年に管仲が死去すると、斉国の国政は乱れ、ついに斉国は覇者の地位から転落していくこととなった。

また、紀元前500年前後、河南省南部の漯河市域は孔子が活躍した土地でもある。

戦国時代期に入ると、この漯河市郾城区の南東一帯に召陵邑(隠陽城)が設置されており、魏国の版図下に組み込まれていた。

現在の漯河市一帯は、秦代、前後漢時代には陳郡下の召陵県(戦国時代期までは隠陽城と通称された)の管轄域となる(漢代に汝南郡へ移籍)。
後漢時代の有名な言語学者である許慎はこの地の出身で、彼が記した『説文解字』は中国、および世界で初の漢字辞書と言われており、初代漢字博士の異名を取る人物である。

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また、三国時代、曹丕が後漢の献帝に権力禅譲を半ば強制し、その政権交代を世に布告すべく、居城の許昌県城の南側にあった召陵城の郊外に新たに式典台(受禅台)を建設する(現在の漯河市臨潁県繁城鎮一帯)。ここで盛大な式典が催され、曹丕が皇帝となって魏国が建国されるに至る。その式典場となった地が受禅台跡であり、これを記念して「受禅表」の石碑と「公卿将軍上尊号奏」の石碑が作成される(この両者をあわせて、三絶碑と通称される)。後漢最後の皇帝・献帝を祀る廟とあわせて、三国志の名所旧跡となっている地である。

また同じく禅譲により西晋朝を建国した司馬炎は、父親の司馬昭の贈り名とダブルということで、召陵県を邵陵県へ改称している。

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南北朝時代の北魏の治世下、潁川郡が新設され、召陵県一帯はここに移籍される。また郡役所は召陵県下の隠陽城へ移転された。このとき、同時に隠陽城は奇雒城(今の漯河市召陵区老寨の一帯)へ改称されている。

隋朝に入って、漢代より続いた州、郡、県の3行政区制度が廃止され、州と県による2行政区体制が導入される。これにあわせ、南潁川郡が廃止されることとなる。

隋第二代皇帝の煬帝の治世下、召陵県(奇雒城)が廃止され、郾城県に編入される。
また、奇雒城は殷城へ改名された。すぐ横に流れる隠水が、通称で殷水とも呼称されたことにちなみ、殷城と命名されたという。
なお、今日でも当地に現存する最古の橋とされる趙州橋は、この隋代に設置されたものである。

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唐代の627年、召陵県(殷城)は再び廃止され、郾城県に吸収合併される(当初は豫州に、763年以降は蔡州に所属)。以後、召陵県は近代まで鎮城となる。

722年5月の汝水での河川氾濫をきっかけに、翌723年、県役所が溵水(今の沙河)北岸から南側へ移転される。この時に新たに築城された郾城県城が、今日の旧市街地である。上地図。

唐後期の814年、蔡州城(今の駐馬店市汝南県)を本拠地とし、 淮西節度使の呉元済が反乱を起こすと、今の漯河市一帯もその勢力圏に組み込まれた。 そして、817年10月、後に唐朝廷で宰相となる裴度により反乱は平定される。郾城県城の攻防戦が主たる戦場となった(下地図)。

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時は下って南宋時代。
1140年に北伐軍を率いた南宋の名将・岳飛は、金軍の領土奥深くまで侵入する。同年7月には、郾城県の北側の王店、五里店(今の三周郷五里崗村)、小商橋などの地で金軍の兀术(完顔宗弼。金国の初代皇帝である完顔阿骨打の第四子)を破り、さらに北上して開封城に籠城する金軍を追い詰め、朱仙鎮(今の開封市祥符区)に布陣するも、南宋朝廷からの撤退命令により泣く泣く河南省の戦線を離脱することとなる。この直後、金軍は岳飛が平定した河南省の南部一帯をすぐに奪還してしまう。
1142年初、金朝に買収された南宋朝廷内の謀略により、岳飛は刑死する。

漯河市 漯河市

元代には、沙澧河の川の流れが変化し、ツブ貝のような蛇行が激しい形状となっていたため、上口鎮は螺湾河鎮へと改名されるに至る。
1290年には、県城の東南にあった河川の流れを変える治水工事が進められた。

明代中期の1524年、螺湾河鎮の「螺(ツブ貝)」の命名があまり美的でないということで、造語の「漯」へ置き換えられ、漯湾河鎮となる。引き続き、郾城県に帰属した。下地図。

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明末期の1644年、李自成の農民反乱軍を打倒し、明朝の仇を討つという名目で、女真族(後金)らが満州から華北へ侵入してくる。このとき、満州族を統一したヌルハチの男子らが各隊を率いて、南明勢力の駆逐戦を展開していくこととなった。後に摂政となるドルゴンを中心に、南征作戦が進められ、ドルゴンの弟であったドド(愛新覚羅・多鐸)が江南地方の平定戦を担当する。1645年、その配下の羅繡錦(1590~1652年)が郾県城下の西平で、劉洪の率いる南明軍を撃破することに成功し、郾県城一帯も清の版図下に組み込まれることとなった。

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なお劉洪は、武昌(今の武漢市)を本拠地として割拠した軍閥の左良玉の副将を務めた人物である。1645年、左良玉は南明朝廷の内乱に絡んで兵を南京へ派兵するも、その途上で病死する。その子の左梦庚が後を継ぐも、清軍との戦いに敗れ、清朝に降伏している。

勢いに乗るドド率いる清軍は、淮水を渡河後、毫州などを攻略し、東へ進軍していく。南明の降将であった許定国の道案内もあり、淮安や泗州なども簡単に攻略し、江北地区への侵攻を開始する。ここに至り、江北に割拠した劉良佐は降伏し、また黄得功は敗死するなど、南明の防衛戦線は崩壊する(下地図)。そのまま南京(応天府)も陥落し、南明はさらに華南へ追い詰められていくこととなった。

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清代末期の1903年、京漢鉄道が敷設され、当地に鉄道駅が新設されるにあたり、最初は漯湾河駅(郾城駅)と命名されるも、あまりに名称が長いということで、漯河駅と略して記されるようになる。漯湾河鎮もこれに合わせて漯河鎮へ改名される。
1906年に全線開通し、漯河沿いは急速に経済開発が進められ、牛行街における家畜交易市場は大いに隆盛を極めたという。これにあわせて、漯河駅の乗客人口も急増し、漯河の名は近代以降に大いにその知名度を上げることとなった。

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