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江蘇省南通市 ~ 人口 735万人、 一人当たり GDP 100,000 元


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  海門県城(海門郷城、海門庁城)
  静海県城(通州城、静海都鎮城、静海制置院)
  海安県城(海安鎮城)
  寧海県城(呉陵県城)
  如皋県城
  蒲涛県城
  臨江県城
  東台県城



【 南通市の歴史 】

今の南通市エリアにおける地理的な変化や、歴史事象は南北で大きく異なった歩みを有する。

南通市北部エリアは、夏、商、西周王朝の時代、未開エリアとして九夷(淮夷)の一部に分類されてきた。
西周から春秋時代にかけては呉国領に帰属され、その海陽県の管轄域に組み込まれていたが、紀元前473年に越国により呉国が滅ぼされると、越国領に併合される。その越国も紀元前334年、楚国により滅亡すると、そのまま楚領に編入された。
秦の始皇帝が中華を統一すると(紀元前221年)、東海郡下で広陵県(今の江蘇省揚州市)が新設され、ここの管轄域に配された。

前漢朝の初期、東陽郡、呉国、江都国など上級行政区はめまぐるしく変化するも、広陵県はそのまま継承された。最終的に紀元前117年、第7代皇帝の武帝により臨淮郡が新設されると、 29県がその下に統括され、同時に新設された海陵県(今の江蘇省泰州市海陵区)も組み込まれた(下地図)。 以後、南通市北部エリアは海陵県の管轄域となる。

南通市

後漢時代も引き続き、南通市北部エリアは海陵県の管轄下に属した。
後漢末の213年、曹操は呉との国境を接し、その防衛に限界を見たため、海陵県(今の江蘇省泰州市海陵区)を廃止し、その住民らを内陸部へ強制移住させる。
三国時代に突入し、呉が当地を曹魏より奪取すると、呉将軍の吕岱(161~256年。故郷がこの海陵県であった。戦乱を避けて江東へ避難し、孫権に採用される)により、海陵県が復活設置される。下地図。
その呉も280年に西晋朝に併合され、中国が再統一されると、海陵県はそのまま継承され、徐州広陵郡下に帰属した。

南通市

他方、南部は古代より長江の川底に位置し、時代とともに、長江が運ぶ大量の土砂により、河口部には大小さまざまな形状の中州が形成されきた。その数は約 800にも上ったという。
春秋時代から唐代末にかけて、東洲と布洲の二つの巨大な中州と(下地図)、周囲に小規模な中州が多数、存在し、それらは時を経て、互いに連結されていった。
下地図は、六朝時代(222~589年)の長江河口部の地図。


南通市

東晋時代の411年、今の南通市北部エリアに、寧海県(今の南通市海安県海安鎮)と如皋県が新設されると、周囲の建陵県、臨江県、蒲涛県とともに、5県で海陵郡(同年、広陵郡から分離・新設)を構成することとなる。これが、南通市での最初の県役所開設となった。

また南北朝時代の劉宋朝の治世時代の471年、新平郡が新設されると(487年の斉朝時代に廃止)、同時に新設された江陰県と海安県の二県が組み込まれた。
この当時、海安県城も今の南通市海安県海安鎮に開設されており、また寧海県の県域は今の如皋県西部、靖江県、泰興県の一帯であったとされるが、定かな境界線は分かっていない。下地図。
間もなくして、海安県は廃止され、寧海県の県域に組み込まれる。以後、隋代まで寧海県はそのまま継承される。

南通市

南北朝時代の周朝の治世下の578年、蒲涛県(今の如皋白蒲)と臨江県(今の如皋石庄)が廃止され、寧海県へ吸収合併される。
隋代の589年、如皋県も廃止され、寧海県に編入されると、今の南通市北部エリアのほぼ全て、寧海県が監督することとなった。

唐代の617年、寧海県は呉陵県へ改称されるも、間もなく呉陵県は廃止され、そのまま海陵県へ編入される。
唐代の708年、海陵県の東側が分離させ、海安県(今の南通市海安鎮)が新設される。このとき、今の南通市北部のほぼ全域を統括したことになる。上地図。
しかし、海水の浸食により、海安県の東部が海に水没してしまったため、 722年、海安県の県域は再び海陵県へ編入される(揚州に帰属)。以後、唐代末までこの行政区が継承された。

南通市

766年、淮南節度使の李承実が、楚州(今の淮安市)下の塩城県から、揚州下の海陵県に至る総延長 70km強にも上る海岸堤防を築造する。常豊堰と通称され、以後、海外沿いの住民らの生活は非常に安定し、このエリアの経済社会発展に大きく貢献することとなった。

南通市

南通市

唐末の875年、今の南通市中心部に狼山鎮遏使の役所が設置される(上地図)。
この頃、狼山鎮は長江上の巨大中州・胡逗洲(上地図)に位置し、その中心都市として同島の開発拠点となった。

以降、五代十国時代の呉国の治世下、狼山鎮の他に、中州上に豊楽鎮、大安鎮、崇明鎮などの新集落拠点が新設されていく。また、長江対岸の海陵県の東部には静海制置使が新設された。下地図。

南通市

この五代十国時代の戦乱期、長江の巨大中州・胡逗洲(中心都市は静海鎮)と東洲を直接支配していたのは土着豪族の姚氏一族であったという。
頭領の姚彦洪は官廨城(別称:静海都鎮)を築城し、狼山鎮、豊楽鎮、大安鎮、崇明鎮の4鎮を統治していたわけであるが、955年より、北朝の後周が南下して、南唐への攻撃を開始すると、最終的に南唐朝は長江の北岸のすべての領土を喪失することとなった(958年)。 その過程で、956年4月19日、南唐朝に帰順していた静海制置使の姚彦洪は、自身が率いる中州島内の領民ら万余りの人々と共に、すぐさま後周朝へ投降してしまう。

こうして、中州エリアが後周朝に併合されると、姚氏一族の直接支配は終わりを告げたという。

戦後早々の958年、後周朝により静海軍の役所が新設されると、間もなく、静海軍は通州(今の江蘇省南通市)へ改編され、同時に、静海県、海門県(今の南通市東洲鎮)の 2県が新設されて、通州(州都は静海県城)下の 2大管轄拠点として機能することとなる(下地図)。
長江の対岸に勢力を後退させた南唐朝への最前線基地として、このとき後周朝により、現在の南通市の中心部に静海県城(通州城)が築城されたのだった。下地図。

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北宋時代、通州は淮南東路に帰属した(上地図)。
1023年、通州(州都は静海県城)は域内に流れる崇川にちなみ、崇州へ改称されるも、後に通州に戻される。1117年の一時期には、通州は静海郡へも改名されてもいる。

宋代、元代を通じて、南通市北部エリアはほぼ全域が、海陵県に帰属していた。
1024年、范仲淹という西溪鎮(今の江蘇省塩城市東台市東台鎮)の塩官が、4万余りの人員を使って、海岸上の防波堤(廟湾から栟茶まで)を整備するべく陣頭指揮し、海安県と東台県の海岸沿いの農田を海水の浸食から防ぐことに成功する。下地図に表示されている「范公堤」である。

元代の1277年、泰州路総管府が新設されると、海陵県と如皋県の2県がこれに帰属した(下地図)。海陵県は海安鎮、角斜場などの下級行政区を統括した。

南通市

明代の1368年、海陵県が廃止され、海安鎮、西場などと共に、その旧管轄区はそのまま泰州へ編入される(上地図)。
以後、通州はただ海門県の一県のみ統括することとなる(上地図。静海県も廃止)。

時は下って明末期の1644年、清軍が山水関を突破し中原への南下を開始すると、翌年7月には通州も占領されるに至る。
清軍が占領した翌1645年以降、南通市北部エリアは、東台県(1770年新設)と如皋県、泰州の管轄域に別々に組み込まれた。

また1672年には、海門県が海門郷へ降格される(通州の直轄地となる)。
1724年、通州が直隷州(泰州から独立)へ昇格されると、泰興県と如皋県の2県を統括することとされる(当初は江蘇布政使司に、1761年以降は江寧布政使司に帰属)。

南通市

明代中期になると、長江の主流が北へ流れを変えたため、中州の大部分の土地が切り取られ、県城が水没することとなる。これにあわせて、静海県役所が廃止されて、静海郷役所へ降格された後、新たに徐澗の地(今の南通市興仁鎮)へ移転される。

清代初期、長江の主流が再び南へ進路を変えると、長江の北岸に再び土砂が堆積し出し、大小 40以上もの中州が誕生し、それらがつなぎあわされて、50km以上も海岸線が伸びこととなった。上地図。

清代中期の1768年、通州下の19沙(集落地の単位)、崇明下の11沙、及び、新漲の天南などの 41沙がまとめられ、(江蘇省)海門直隷庁の管轄区が新設される(下地図)。庁役所は今の南通市茅家鎮に開設された。

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清末期の1911年11月8日、通州官紳(長官クラス)が武昌蜂起に始まる反清運動に参加し、通州が清朝の支配からの離脱を宣言すると、翌日、軍政府が新設された。
中華民国により中国が再統一された1912年、通州が廃止され、南通県へ改編される。また同時に、静海郷は海門県へ再昇格された。
また、北部エリアでは泰州が泰県へ改編され、泰県、如皋県、東台県が新設される。

日中戦争時代の1938年3月には、南通市も日本軍の支配が及ぶこととなる。
国共内戦後の1949年2月、南通県が南通市へ昇格される。


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