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河南省平頂山市 ~ 人口 500万人、 一人当たり GDP 35,000 元


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  葉県城
  昆陽県城
  魯陽県城(魯県城、魯山県城)
  治城県城(承休県城、【2代目】梁県城、汝州城)



【 平頂山市の歴史 】

5000~6000年前の新石器時代、平頂山市一帯では早くも人類の生息が確認されているという。

商(殷)王朝、および西周王朝の時代、このエリアは応国の統治下に置かれた。
東周朝の時代、王都・洛陽の周辺地区として常に先進エリアに属した。下地図。

平頂山市

春秋時代期には戎蛮子国の版図下に置かれた。 今の平頂山市汝州市尚庄郷九窑村の南1kmに残る古城遺跡(鄤城、蛮中聚、麻城)が、この戎蛮子国の王都であったとされる。

戎蛮子国に関しては、その詳細は不明な点が多い。最終的には紀元前491年に、楚国の昭王が派遣した単浮于による軍事進攻により滅ぼされることとなった。
総大将の単浮于は、梁邑(今の開封市)と霍陽山(峴山)へ兵を進めると見せかけ、突如、戎蛮子国への攻撃を開始する。 国王の蛮子赤は目立った抵抗もできず、西の山岳地帯であった陰地(今の平頂山市魯山県嵩県の一帯)へ落ち延びる。当時、陰地は隣国・晋の領土下にあった。
楚国は晋国へ使者を遣わし、蛮子赤と5名の大臣らを捕縛させ、楚国へ強制送還させる。こうして蛮子国は完全に消滅することとなった。

その後、平頂山市エリアは楚領に組み込まれるも、春秋時代の晩年には楚の内部統制力も弱まり、北部の領土の多くを喪失してしまう。

平頂山市

戦国時代の前期までは鄭国の領土下に帰属されるも(上地図)、紀元前375年に鄭国が滅亡し、そのまま韓に、後に魏の領土下に組み込まれる。紀元前225年に秦が魏を滅ぼして以降は、秦領に組み込まれた。

紀元前221年に秦の始皇帝が中原を統一すると、全国に郡県制が導入される。このとき平頂山市一帯は、三川郡下の梁県の行政区に帰属された。

秦王朝が項羽により滅ぼされた紀元前206年、三川郡が河南郡(郡役所は洛陽城に開設)へ改称される。その下に、葉県、昆陽県、魯陽県(魯県より魯山県へ、さらに魯陽県へ改名)などが新設された。下地図。

平頂山市

前後漢時代から東西晋時代、引き続き、梁県(河南郡【後に河南尹へ改称】に帰属)下で統括された。下地図。

平頂山市

南北朝時代、梁県が廃止され、その行政区は汝原県と治城県へ分かれて編入される。
北魏の治世下の477年、高陽県が新設される。

南北朝時代を統一した隋朝の統治時代、平頂山市一帯は襄城郡と潁川郡に分かれて統括された。
606年、治城県が承休県(今の平頂山市汝州市)へ改称される。

唐代初期、承休県が梁県へ改名される。今の平頂山市域は唐代を通じて、汝州(州役所は梁県城内に開設)、許州、襄城郡に分かれて管轄された。

平頂山市

宋代、元代、そして明代、清代を通じて、平頂山市エリアは汝州と許州、裕州に別々に管轄される。引き続き、市域の大部分は梁県(汝州の州都として君臨)下に所属された。

なお、現在の平頂山市中心部は、近代以降に開発された都市である。


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