BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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山東省 青島市 ~ 人口 910万人、 一人当たり GDP 105,000 元


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  ドイツ・日本の 植民地統治遺産
  膠西県城(板橋鎮城、市舶司、膠州城)
  長広県城(長広郡城)  後漢末、曹操に討伐される 海賊・管承の故郷、陳寿の左遷先
  不其県城(【2代目】長広郡城)
  即墨県城
  計斤県城(莒国の旧王都跡、介根県城)
  祓国の王城跡
  櫃県城
  邞県城
  黔陬県城
  壮武県城



【 青島市の 歴史 】

今の青島市域は実に 4500年以上にも及ぶ歴史を有しており、新石器時代を代表する汶口文化と龍山文化、岳石文化が一体化した三里河遺跡が有名である。古代より、主に東夷人が集落地を形成し、夏王朝や商(殷)王朝の時代には、莱夷族らが割拠した。
商(殷)王朝時代には、姑幕国が封じられていた。

特に、この商(殷)王朝、および 周王朝の時代、青島市では早くも塩田が開発されており、中国四大製塩地帯の一つに数えられていた。また合わせて、青島市は中国道教の発祥の地の一つとされる。

西周朝の初期、東部には介国が、西部には莒国が存在していた。

青島市

春秋時代初期、莒国の王都が、計の地(計斤城。今の 青島市膠州市南関街道城子村)から 莒の地(今の 山東省日照市莒県)へ遷都されると、莒国の国力は最高潮に達する。隣接する 斉国や魯国、晋国らの大国と同盟を結び、周囲の諸侯らとの戦いを積極的に進めた。上地図。

しかし、春秋時代後半に入ると莒国の政治は腐敗し、その混乱に乗じて、隣国から次々に領土を侵犯され、急速に弱体化していく。
紀元前 431年、楚国が領土拡張を図り、その勢力を北へ進める途上で、蔡国が滅ぼされ、続いて莒国も滅亡に追い込まれることとなる。しかし、最終的に旧莒国の領土は斉国に併合される。下地図。

また、この頃、既に 即墨城(即墨邑。今の 青島市平度市古峴鎮大朱毛村の一帯)が存在していたとされ、後に山東半島一帯で第 2の大都市へ成長する。下地図。

青島市

紀元前 284年に、燕国の将軍・楽毅が五ヶ国連合軍を率いて斉国領へ侵入すると、半年後に斉国の王城であった臨淄城は陥落し、斉の湣王は 莒城(今の 山東省日照市莒県)へ逃亡する。下地図。

しかし、翌年、湣王が宰相の淖歯に殺害されると、代わりに、その子の法章が莒城で襄王として擁立される。斉国の残党勢力はそのまま莒城に立てこもり、6年に及ぶ籠城戦を戦い抜くこととなる。

このとき、楽毅は斉国下の 70余城を陥落させ、残すところ、莒城(今の 山東省日照市莒県)と 即墨城(今の 青島市平度市古峴鎮大朱毛村の一帯)のみにまで追い込むも、即墨城の守将となっていた田単が火牛の計で燕軍を撃破すると、すぐに 70余城を再奪還し、斉国はかつての勢力圏を取り戻すことに成功する。戦後、田単はその戦功により、安平君に封じられる。

青島市

しかし、紀元前 221年、その斉国も秦国に降伏することとなり、旧領地に郡県制が導入される。旧斉領は 3郡に分割され、 即墨県城を郡都とする膠東郡が新設される。

中原を統一した秦の始皇帝は、5度にわたる全国巡遊を決行し、そのうち、3度も 琅琊の地(今の 青島市黄島区)に足を運んでいる。
伝説によると、この琅琊の港こそ、徐福が東方の朝鮮や日本に向けて出航した地とされている。
付近には、秦代初期に既に 黔陬県(琅琊郡に帰属。今の 青島市膠州市の南西部)が開設されていた。

前漢時代、後に第 7代目皇帝・武帝に即位する劉徹が、わずか 4歳にして 不其県城(今の 青島市城陽区)へ派遣され、膠東国王に封じられている。下地図。
この武帝こそ、中国史上でも、最も多く青島市へ足を運んだ皇帝とされる。

青島市

前後漢時代には、祓国(今の 青島市膠州市)、及び、計斤県(莒国の旧王都跡。後漢時代に廃止され、黔陬県へ編入される。別称:介根県。今の 青島市膠州市南関城子村)、櫃県(今の 青島市黄島区【膠南市】王台鎮。後漢時代に廃止)、邞県(漢代に廃止。今の 青島市膠州市)、黔陬県(今の 青島市膠州市に南西部)、壮武県(今の 青島市即墨市藍村鎮古城村)、 即墨県(今の 青島市平度市古峴鎮大朱毛村の一帯)などが設置されていた。上地図。

後漢末期の 196年、長広県(今の 青島市莱西市)と長広郡が設置される。下地図。
この長広県であるが、海賊・管承の故郷として知られ、袁譚支配下の青洲に帰順した。
205年に曹操が袁譚を処刑すると、翌 206年にかけて曹操軍と青洲の残党勢力との 戦いが山東半島一帯で繰り広げられる。この戦いで、楽進と李典の軍により管承らも土地を追われ、 最終的に翌 207年に、張郃により討伐されることとなる。
青洲を平定した曹操は、前漢時代に設置されていた城陽郡を復活設置させると、代わりに、長広郡を廃止した。下地図。

青島市

西晋朝時代の 277年、再び長広郡が復活設置されると、その郡役所が 不其県城(今の青島市嶗山区の北部)に併設される。上地図。
翌 278年、この長広郡長官として 陳寿(このとき、既に『正史三国志』を執筆中)が赴任を命令されるも、最終的に この陳寿の左遷人事は中止され、彼は朝廷に残ることとなる。280年に西晋が呉を滅ぼし、三国を統一した 時点で、彼の『正史三国志』の執筆は終わる。297年没(享年 65歳)。

300年、城陽郡が廃止され、高密国(王都は 桑犢県城【今の 山東省濰坊市の東部】)が新設される。

東晋朝から、劉宋時代にかけても、高密郡(下地図)が踏襲される。
北魏時代の 529年に、膠州が新設されると、高密郡(郡役所が高密県城【今の 山東省濰坊市高密市の南西】へ移転)は、東武郡と平昌郡と共にここに帰属した。 なお、この時代、長広郡の郡役所が膠東県城(今の 青島市平度市)へ移転される。

時は下って、北斉時代の 556年に平昌郡が新設されると、黔陬県は平昌郡へ移籍される。 また、長広郡の郡役所が黄県城へ再移転される。

青島市

隋代初期の 583年に 平昌郡と長広郡、長広県が廃止されると、黔陬県は 膠州(585年に密州へ、607年に高密郡へ改称)の管轄下へ移籍される。州都は、東武県城(今の 山東省濰坊市諸城市)に開設された。上地図。
596年、膠西県(今の 青島市膠州市中心部)が新設される。最終的に 605年、黔陬県は廃止され、膠西県へ吸収合併されることとなる。上地図。

唐から宋代にかけて、現在の青島市の海岸線は中国華北と華南地方との海路の中継地点として発展し、北方地方の主要貿易港の一つとして台頭するようになる。

なお、唐代の 623年、膠西県(今の青島市膠州市中心部)が板橋鎮へ降格される(高密郡に帰属)も、北宋時代の 1088年に再び、膠西県へ再昇格される。 膠西県城内には、貿易管理行政を司る市舶司も併設されることとなる。下地図。

青島市

元代に入ると、華南地方の物資をより効率よく華北へ移送するために、大陸中国で唯一の海路運河が掘削される。山東半島を南北に貫く膠莱運河である(上地図内の膠莱河)。
この元代以降、膠西県城(今の 青島市膠州市中心部)が膠州の州都として君臨することとなる。

明代、清代には、現在の青島市中心部は主要な港湾集落の一つを形成しており、膠澳と通称されていた。下地図。
清末の 1891年6月14日、清朝政府により膠澳に軍事要塞が建設されるに至り、現在の青島市中心部の開発が本格化することとなる。

青島市

1897年11月初旬、山東省曹州府一帯でキリスト教会への襲撃事件が多発する(曹州教案、鉅野教案、鉅野事件)。その際、ドイツ人神父 2人が殺害されたことを口実として、ドイツ帝国が膠州湾を占領してしまう(11月14日)。
これに絡む外交交渉の末、翌 1898年にドイツは 99年間の膠州湾の租借権を獲得する(下地図)。
ここから、山東省でのドイツ植民地支配が開始され、ドイツ政府により、膠州湾岸、特に、現在の青島市中心部の大規模開発が進められていく。

青島市

1914年の第一次世界大戦勃発とともに、日本がドイツに代わって青島市を占領する。上地図。
下写真は、日本占領時代の青島神社。現在は、桜の名所となっている。
大戦後も駐留を続ける日本軍に対し、1919年、中国への主権回復を求める五四運動が青島市で発生している。

青島市

1922年12月10日、ようやく中国国民党の北洋政府が日本から青島市を返還される。以後も、山東省エリアの重要貿易港として利用され続けた。
1929年7月、国民党政府が青島特別市を設置し、1930年に青島市へ改編するも、1938年1月、日本軍が再上陸し、青島市は再び日本の占領下に置かれることとなる。最終的に、1945年9月に国民党政府へ返還された。


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