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甘粛省慶陽市 ~ 人口 223万人、 一人当たり GDP 24,000 元


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  慶陽府城(重州城)



【 甘粛省慶陽市の歴史 】

夏王朝、商王朝の時代、慶陽の一帯は鬼方と呼ばれる不毛の地であった。しかし、周王朝の時代には、居住民も現れ 集落を形成していたと考えられている。西周王朝の時代、北豳と古称された。慶陽の一帯は渠戎国に帰属する少数民族「戎狄」らの居住区であった。

春秋戦国時代の紀元前272年、秦国の昭王が渠戎国を滅ぼし、北地郡を設置する。この統治形態は前後漢、晋王朝まで踏襲された。

南北朝時代の西魏王朝下、朔州が設置され、彭陽(今の西峰区内)、陽周(今の正寧県内)、豳州趙輿郡、定安県、襄楽郡、襄楽県、独楽県(同なじく今の正寧県内)を管轄するも、北周王朝時代に廃止される。
隋王朝初期の596年、重州が設置されるも、二代目皇帝「煬帝」の治世下、弘化郡へと再編され、合水県、馬嶺県、華池県、帰徳県、洛源県、弘化県、弘徳県の7県を統括するものとされた。
唐代の初期、重州が再設置されるも、758年、安定軍へと昇格され、これまでの7県を含む10県を統括するものとされた。
五代十国時代の梁王朝下、武静軍へと改名され、そして後に、再び慶州が再設置される。

慶陽市

北宋の950年、慶州は隴西路に帰属するものとされる。後に、環慶路、慶陽軍節度、慶陽府へと改名されていく。金王朝時代、慶陽は安国軍、さらに定安節度へと改名された後、1142年、慶原路総管府が設置された。
元の時代、慶陽府へと戻される。明の時代、隴西布政司に帰属し、あわせて、対モンゴル戦線用に慶陽衛も併設されることとなった。
清の時代、甘粛布政司に帰属した。そして、このまま近代まで継続されることとなる。

慶陽市

なお、この慶陽古城であるが、今日では完全に城壁も撤去されており、かつての面影もわずかな路地名に残されているのみである。北門小区、北大街、東大街、西大街、南大街、老西環路、西門ビル、東倉巷。
かつての中心都市は、現在の慶城県側にあった古城である。


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