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河南省三門峡市 ~ 人口 230万人、 一人当たり GDP 50,000 元


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  陕県城(陕州城)



【 三門峡市の歴史 】

三門峡市の中心部は黄河の開発に伴い、1957年以降に開発された、かなり新しい都市である。

今から50万~60万年前には古代原人の生息があったとされ、また6000年前の旧石器時代の遺跡(上村溝、会興溝、王官溝一帯)からは、大規模な氏族社会を有した古代集落の存在が確認されているという。

紀元前21世紀から13世紀のころ、この黄河中流域一帯に夏王朝と商(殷)王朝の政治の中枢が設置されていたわけであり、当然、三門峡市一帯でも畿内エリアとして、早くから複数の集落都市が形成されていたはずである(豫州に帰属)。

三門峡市

伝説によると、大禹が治水工事を実施した際、黄河に人工湖を建造し、黄河の流れを3つに分断(人門、鬼門、神門)したことから、三道峡谷という地名が誕生したとされる。上絵図。

西周王朝の時代、封国であった焦国と虢国の版図下に組み込まれる。春秋時代期には、虢国、後に晋国の領土となる。

戦国時代期、韓、続いて魏、秦と為政者が次々に変わる、兵火必至の地であった。下地図。

三門峡市

紀元前221年に秦の始皇帝により中原が統一されると、新設された三川郡下の陕県の管轄下に組み込まれた。前後漢時代には、弘農郡に帰属した。
三国時代期、魏国の恒農郡に、東西晋時代には司州弘農郡に属した。下地図。

三門峡市

南北朝時代の北魏の治世下の487年、陕州が設置されると陕州陕県となる。
隋代には河南郡、唐代には河南道陕州、五大十国時代には梁朝下の鎮国軍陕州、つづいて後唐、後晋、後漢、後周朝の治世下には保義軍陕州に属された。
宋代には永興軍陕州(下地図)、金代初期には西安軍河南府、そして後期には金昌府陕州硖石県に帰属された。

三門峡市

元代に入ると、河南路陕州陕県、明代には河南府陕州、清代も明代の制度がそのまま沿用され、最終的に1724年に河陕汝道直隷陕州の下に置かれた。
下地図は、元朝末期の紅巾軍の北伐ルートを示す。陕州城も攻略された。

三門峡市

1912年に中華民国が建国されると、豫西道と河洛道に、後に河南省第11行政督察区の管轄下に配された。

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