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天津市 ~ 人口 1,480万人、 一人当たり GDP 105,000 元


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  天津府城



【 天津市の歴史 】

4000年以上前、現在の天津市一帯はまだまだ海の底であったという。
黄河は自身が運んで堆積させた土砂により、過去3回にわたって海への出口である河口部を変化させてきた。3000年前には現在の寧河県付近が河口であり、前漢時代(紀元前206~8年)には黄驊県付近が河口となり、さらに北宋時代(960~1127年)には現在の天津市南側の郊外が河口部に位置した。そして、金王朝の時代(1115~1234年)、河口はさらに南へ移動し、これ以降、天津周辺の海岸線が固定されることとなったという。だいたい千年ごとに河口が変化している 計算になる。つまり、ちょうど西暦2000年前後の今の時代、本当は河口が再移転するタイミングに来ている わけであるが、護岸工事などで自然の動きが妨げられ、これもかなわない状態と言えよう。現在、黄河の 河口部の川底にはかなりの土砂が堆積してしまっているはずである。

さてさて、前漢第七代皇帝の武帝の時代、今の天津市武清区内に塩官という役所が設置される。当時、この海岸で既に塩田開発が行われていたことが分かる。
時は下って、隋代。第二代皇帝の煬帝によって、京杭運河が建設された後、南運河と北運河が交錯する地点(今の金剛橋三岔河口)が、「三会海口」と呼ばれるようになり、集落が形成されていく。これが天津市の始まりとなる。

天津市

唐代には、現在の天津市街区の北側に位置する芦台鎮に塩田が開拓され、今の天津市宝坻区に塩倉街が開設される。
遼朝の時代、前漢時代と同じく、現在の武清区内に権塩院が設置され、塩業全般の監督を司ることとされる。

1125年より華北地方を北宋から奪取し支配した金国も、モンゴル軍の南下に苦しみ、金朝の女真族発祥の地であった現在の吉林省や遼寧省も、モンゴル勢力に併合・吸収されるに及び、 1213年、いったんモンゴル軍と和睦を図る。その翌年、金朝は間近に迫ったモンゴル勢力を避けるため、河南の開封に遷都する。そして同年中に海岸線の防備強化が図られ、現在の天津市三岔口に直沽寨が築城される。この「直沽」が最古の天津市の地名とされる。
しかし、金国の南遷に激怒したモンゴル軍は再度、侵攻を開始し、翌1215年夏、旧王都であった中都(現在の北京)を陥落させ、金は黄河以北の大部分の領土を失い、天津市一帯もモンゴル勢力圏下に組み込まれることとなる。そして、ついに1234年、モンゴル軍により金朝が滅亡する。

その後、1279年に南宋をも滅ぼしたモンゴル勢(1260年、元朝を建国)により、 1316年、直沽寨は海津鎮へと改名され、元朝の首都であった大都(現在の北京市)に最も近い海港ということもあり、海運交易の中心地として発展していく。また、元朝によりこの地に大直沽塩運使司が設置され、塩事業を管理するものとされた。

モンゴル勢力を北方へ追放し、新たに明朝を建国した朱元璋が1398年に死去すると、第二代皇帝として建文帝が即位する。各地に分派された皇族らの粛清に乗り出した皇帝権力に反対し、当時、燕王として北京に封じられていた朱棣(朱元璋の四男)が挙兵する。1400年4月、朱棣は30万の大軍を率いて、皇帝軍の60万と河北省の雄県一帯で大激戦に臨む(白溝河の戦い)。このとき、朱棣は九死に一生を得ながらの勝利をおさめる。最終的に1402年夏に王都の京師(今の南京市)を陥落させ、第三代皇帝(永楽帝)に即位する。この一連の戦いは世に有名な「靖難の変」と呼ばれるものであるが、1399年の挙兵準備から白溝河の戦いまでの苦労と勝利を記念し、1404年、永楽帝はこの地を天津と改名する。「天子が河口を渡った」という意味を込めたとされる。

天津市

1403年、南京から遷都され北京(当時の地名は北平)が王都となる。王都に最も近い海岸線防備のため、三岔河口の西南部分に軍事施設を兼ねた城郭都市が築城される。天津衛と呼ばれるもので、天津城の都市発展の重要なターニングポイントとなる。後に、天津左衛と天津右衛も増設されていく。

清代初期の1652年、天津左衛と天津右衛の二つを合体する形で、天津衛が継承される。あわせて兵士駐屯所や塩管理、徴税庁などの行政機関も増設されていく。
1725年、天津衛は天津州へと改名される。1731年にはさらに天津州が天津府へ昇格され、六県一州を統括することとなる。

天津市

清代末期、天津は直隷総督が駐屯する重要拠点となる。また、李鴻章と袁世凱による西洋化促進基地の一つに選定され、北洋艦隊などを有する北洋閥の主要拠点となっていく。
1860年にイギリスとフランスの連合軍が首都・北京を占領し、清国は天津条約を締結させられ、天津港が開港する。以後、欧米列強が天津市内に租界を設置していく。
1900年7月には八か国連合軍が天津を攻撃し、占領する。 1901年、この連合軍により天津都統衛門へ圧力が加えられ、天津城の城壁撤去が進められることとなった。

清朝が滅亡し、中華民国が建国された初期、天津は多くの政治キーパーソンらが集い、さまざまな思惑が渦巻く都市となる。数百にも上る旧清朝を支えた官僚や行政官、元老らが、天津の欧米列強が治外法権で支配する租界地内へ避難し、その復権を工作していたとされる。その中には民国総統の黎元洪や前清皇帝の溥儀もいた。
1928年6月、国民革命軍(国民党の直属軍:北伐を目的として結成)が天津を占領し、南京国民政府により天津特別市が設置される。 1930年6月、南京国民政府直轄の天津特別市となるも、11月には河北省による直轄都市へと変更される。再び、1935年6月、国民党政府の直轄都市に復帰する。

日中戦争時代、日本軍の上陸基地としての役割を果たす。太平洋戦争が始まるまでは、欧米列強の租界地域があったこともあり、日本軍が上陸し占領したとは言っても、まだまだ安全な都市であったらしい。しかし、日米開戦が勃発すると、欧米資本の追放が行われ、日本の軍事統制が強化されて困窮を極めることとなる。
戦後の共産党時代、1949~1958年は政府直轄都市となるも、1958~1966年までは河北省直轄都市となり、再び、1967年に政府直轄都市となって以降、今日まで至る。

天津市


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