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甘粛省武威市 ~ 人口 182万人、 一人当たり GDP 22,000 元


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  武威郡城(涼州城、姑臧県城)



【 武威市の歴史 】

周王朝の時代、雍州に帰属する。春秋時代までは西域民族の西戎がこの地を占有していた。後に秦国の領土となる。 秦王朝の時代、北方に勢力をもっていた遊牧民族の「東胡」王国と「月氏」王国のうち、後者の版図下にあって放牧地として活用されていたようである。
秦滅亡後の前漢時代の174年、西域民族の匈奴王国が月氏王国を壊滅させ、河西一帯を占有する。そして、匈奴の休屠王により、盖臧 (姑臧とも言われる)城が築城される。

しかし、前漢王朝 7代皇帝の武帝により、西域遠征が繰り返され、この地域も中国本土に併合されることになる。そして、紀元前126年、雍州から涼州へ改名している。その土地の寒冷さから、「涼」州と命名されたという。さらに紀元前121年、遠征軍を派遣し、匈奴を敗走させ、河西地区をも漢の版図下に収めることに成功する。
紀元前106年、匈奴により築城されていた盖臧 (姑臧とも言われる)城内に涼州役所を設置し、武威郡(この下にさらに10県を統括)、酒泉郡、張掖郡、敦煌郡の4つを管轄させることとされた。

武威市

時は、三国時代。

この地でも後漢末の混乱の余波は大きく、その統治体制は大きく弱体化していた。各群雄が割拠して、中央の後漢王朝への反乱も度々起こされており、その中に韓遂や馬騰らもいたわけである。最初、盟友関係にあった韓遂と馬騰であったが、すぐに対立し、関中や西涼州内での軍事的衝突が始まる。韓遂は自身の立場を有利に進めるべく、当時、中央政界を牛耳っていた曹操へ恭順の意を示し、197年、自身の子を人質として曹操のもとに送っている。
200年ごろ、後漢王朝は、張猛を武威太守、邯鄲商を雍州刺史として派遣し、政情不安の西域経営の立て直しを命じる。しかし、協力するどころか、派遣された両者の関係自体が悪化し、209年、張猛は雍州刺史を殺害し、西域民族を率いて、朝廷に対し反乱を起こす。その翌年、朝廷の命を受けた関中軍閥の一人「韓遂」が討伐軍となり、派遣される。この地で勇名をはせていた韓遂を恐れた将兵や庶民が離反したため、張猛は捕縛され処刑されてしまう。その後、韓遂は涼州での実質的な覇権を握ることになった。
これより少し前、曹操は関中、西涼州の軍閥の勢力をそぐべく、朝廷命令ということで、有力豪族であった馬騰に一族を引き連れて、当時の都「鄴」へ出仕するよう指示を下す。馬騰はこの曹操側の圧力に対抗できないと判断し、一族を引き連れてに移住すると、馬騰の軍勢は、その長男の馬超に引き継がれることになった。

211年3月、曹操は漢中の張魯征討の軍を起こし、夏侯淵らの派遣する。その通路にあたる関中、西涼の軍閥らは、その通行路にあたる自領を攻撃されるのでないかと危惧し、この地の最大勢力となっていた韓遂をはじめ、馬超・楊秋・成宜・李堪ら関中の有力豪族らが呼応して反曹操連合軍を形成した。しかし、同年9月には、曹操による韓遂と馬超の離間策が功を奏し、西涼・関中連合軍は崩壊することになる。
この平定後、すぐに馬騰一族は都「鄴」にて処刑されてしまう。
これに激怒した馬超は氐族と手を組み、214年、再び反乱を起こす。曹操は長安に赴任させていた夏侯淵を、涼州平定のために派遣する。夏侯淵は馬超討伐とあわせて、涼州の抵抗勢力を一掃することを企図し、弱体化していた韓遂にも攻撃を加える。韓遂は西域の異民族と同盟し、馬超軍とは別に抵抗するも敗れ、金城郡(西平郡ともされる)に逃走する。この翌年、曹操は自ら漢中討伐軍を率いて、この地に入る。この知らせを聞いた西域諸豪族らは恐れをなし、続々と曹操へ帰順していく。この地に身を潜めていた韓遂も地元豪族により殺害され、その首が曹操に届けられたという(享年70歳を過ぎていたため、寿命で死去したともされ、その死体の首を届けた、とも)。このころに、西涼一帯も魏の勢力下に入ることになった。
この前年の戦いで、馬超も夏侯淵軍に敗れており、漢中の張魯のもとへ身を寄せることになる。そして、215年に曹操軍が漢中への南下を始めると、馬超は一足先に益州の劉備のもとへ帰参することになる。

220年10月に、文帝「曹丕」が涼州に武威郡はじめ7郡を統括させるべく、西域統治の再編が行われた。凉州役所は引き続き、武威郡の姑臧古城とされた(武威郡自体でも9県を管轄するものとされた)。
三国を統一した西晋時代、馬隆が武威郡太守に任命されている。このとき、管轄下には7県があったとされる。


晋王朝が長江南側へ移動し、華北地帯が戦乱にまみれた五胡十六国時代、河西地区は「五凉割据の時代」を迎える。当時、涼州は西域における政治、経済、軍事の中心地であり、涼州や武威郡自体の役所を兼ねていた、この姑臧県城には、「五凉」国のうち、前凉、後凉、南凉、北凉の4王朝もの王都が設置されることになった。

そして、華北での五胡十六国と、南北朝対立時代の戦乱を制して300年ぶりに中国本土を統一した隋王朝時代の初期においては、引き続き、涼州が設置されていたが、607年に州制度が改編され武威郡へと変更される。その郡役所は姑臧城が継続使用される。そして、隋末期の617年7月、武威郡の鷹揚府司馬であった李軌が隋に対し挙兵し、河西地区一帯を占拠し、大涼国を建国する。その王都も、姑臧城とされた。しかし、2年後の619年、唐王朝の初代皇帝「李渊」により滅ぼされてしまう。平定後、隋代から踏襲した武威郡が再設置された。
そして627年、唐の太宗皇帝により全国の統治機構は10道に再編され、凉州は隴右道に帰属されるものとされた。しかし、742年、すぐに凉州は武威郡へと戻されている。その後、安史の乱を経て、唐の国力は大幅に低下し、764年、吐蕃王国(チベット族)より武威郡は占領されてしまう。これから300年間、武威郡を含めた西域一帯は中国本土史から切り離された時代が続く。そして、北宋の時代にようやく西域の半分を再奪取することに成功する。このころ、西凉府が新設されている。しかし、引き続き、西域の大部分は西夏王朝の下にあり、ときに武威の地も占領されるときも多々あったようである。この占領期間中、武威には西夏辅郡が設置されていている。

モンゴルや西域民族らの勢力を撃退した明王朝により、西域の大部分も再平定され、改めて凉州衛が設置される。
清朝初期のころ、明代の行政制度がそのまま継承される。しかし、清朝も中期に差しかかった1724年、凉州衛が廃止され、代わりに鎮番衛と永昌衛が新設され、武威県、鎮番県、永昌県の3県をそれぞれで統治することとされた。あわせて、古浪守御千戸所と庄浪衛が廃止され、それぞれ古浪県と平番県が設置(庄浪庁も併設)されている。同時に凉州府も設置され、武威県、永昌県、鎮番県(今の民勤)、古浪県、平番県(今の永登)の5県と庄浪庁を統括するものとされた。その州役所はやはり、武威県の姑臧城に開設されている。 この統治体制のまま、清末を迎えることになる。

武威市

古くから武威郡役所や涼州役所が設置された姑臧城(現在の武威市中心部)であるが、現在は、南門付近にのみ城壁や城門跡が保存されている。その他はすべて撤去されてしまっていた。しかし、現在の路地名に多くの痕跡が残されている。北関路、西関路、南関路、達府街、文廟街、会館巷、署東巷、北大街、南大街、東大街、糧食道、鐘楼路、南城門楼(近くに歴史博物館もあり)。


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