BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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湖北省 襄陽市 ~ 人口 570万人、 一人当たり GDP 35,000 元


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  襄陽県城(荊州城、襄陽郡城、襄州城、襄陽府城)
  樊城(安养県城、臨漢県城)
  北津戍



【 襄陽市の 歴史 】

周朝の時代、皇族や同盟関係にあった族長らが各地に諸侯として封じられる。時とともに、彼らは地場で勢力を広げ、各地に割拠するようになる。現在の襄陽市エリアでは、鄧、谷、羅、随、唐、厲、卢戎などの諸国が存在するようになっていたという。

春秋戦国時代期、楚国により、これらの地方軍閥が徐々に併合されていき、各地にあった城塞が県城や城邑などの地方都市に再編されていく。例えば、随県、鄧県、鄀邑、酇邑、卢邑などがこれに当たる。今の襄陽市中心部から西へ 3 kmには 北津戍(今の武山と琵琶山の山麓と漢江との間)が設置されていた。

襄陽市

秦朝が中原を統一すると、鄧県、筑陽県、山都県、酇県、随県、鄀県、鄢県、邔県などが設置された。

前漢朝が紀元前 202年に建国された直後、襄陽県が新設される。県役所が 襄水(今の南渠)の 南(陰陽の陽)側に開設されたことから、襄陽と命名されたという。
その管轄域は、漢水の南岸側で、隣接する中蘆県の東側かつ北側の一帯とされた。

前漢 7代目皇帝・武帝により、荊州刺史部が新設されて以降は、荊州南郡下の襄陽県となる。

時は後漢末期の 190年、荊州刺史であった劉表が州役所を襄陽県城内へ移転する(後漢時代、荊州役所は漢寿城内に開設されていたが、荊州内での軍閥らの抗争が激しく、劉表は暫定的に宜城を荊州の州都として滞在していた)。
赤壁の 戦い(208年)直後、敗走する曹操は江陵城に 曹仁と徐晃を、この襄陽城の守備に楽進を配置し、自身は鄴への帰途につく。これを追撃して呉の周瑜が江陵城、襄陽城へ攻め込むも、曹仁らは 1年近くも守り通し、ついに魏の総崩れを防ぐことに成功する。最終的に江陵城は陥落し、呉軍に占領されるも、襄陽城は守り切り、以後、荊州南郡の北側のみ魏領として残されることとなった。曹操は、この襄陽城一帯を南郡から分離して、襄陽郡を新設する。郡役所は襄陽城内に併設された(そのまま荊州内に所属)。

襄陽市

219年秋に関羽は魏軍の荊州拠点であった襄陽城と樊城の攻略に乗り出す。しかし、徐晃の率いる魏の援軍と呂蒙らの呉軍からの挟撃を受けて、最終的に関羽は荊州を失い、翌年初めに捕縛されて処刑されることになる。上地図。

以後、荊州は呉と魏により二分割されることとなる。下地図。

襄陽市

三国時代の統一に成功した西晋朝による太平の世も長くは続かず、華北地方は周辺の異民族らの侵入を受け、五胡十六国時代という内戦時代を迎える。

この戦乱を避け、雍州の 地(今の 陕西省一帯)から多くの避難民らが漢江を下って襄陽の地に流れ込むようになり、ついに東晋朝の孝武帝は、389年に襄陽城を州都とする雍州を仮設するにまで至る。

南北朝時代の宋朝の治世下の 449年、荊州内の 襄陽郡、南陽郡、順陽郡、新野郡、随郡などの 5郡が分離され、北方の異民族国家に占領されていた 雍州(今の陕西省)の代替地として、これら 5郡をまとめる雍州が新設される。その州役所は襄陽郡城内に併設された。

続く南斉朝もこの行政区を踏襲するも、梁朝の時代には度重なる内戦と外征で国内は混乱し、この機に乗じて侵入した西魏により襄陽城が占領されてしまう(下地図)。西魏はそれまでの雍州を襄州へ改称し、総管府を開設した。現在の襄陽市一帯は襄州総管府の襄陽郡下に帰属される。北周朝もこれを継承する。

襄陽市

南北朝の内戦を統一した隋朝の時代、初代皇帝の文帝はそのまま襄州とするも、第 2代目皇帝・煬帝により襄陽郡へ改編される。

唐代に入って、全国的に郡制が廃止されたことを受け、襄州へ戻される。
627年に山南道が新設され、襄陽城内に道役所が併設される。このとき、山南道襄州となる。
733年には山南道が東西に分割され、山南東道の道役所が引き続き、襄陽城内に開設された。五代十国時代も、この山南東道襄州が継承された。

時は下って、北宋の初期には京西南路襄州、1119年には京西南路襄陽府となる。

南宋時代の 1135年、鄧県城が廃止され、その行政区が襄陽県へ吸収合併されたことを受け、襄陽県の県域が漢水の北岸まで拡大される。引き続き、襄陽県城は襄陽府の府都であり続けた。

襄陽市

1273年に 5年に及ぶ攻城戦を経て襄陽城の 占領(上地図)に成功したモンゴル軍は、そのまま 1276年に首都の臨安を降伏させて南宋を滅ぼす。さらに 3年にも渡る中国南部での激戦をへて中国を統一したモンゴル軍は、元朝を建国し、本格的な中国統治を進める。1292年には、江北河南行中書省襄陽路として再編された。

明代の洪武初年、湖広行中書省襄陽府となる。1376年には湖広承宣布政使司襄陽府へ改編される。
明末期の 1643年1月、李自成の率いる農民反乱軍が襄陽城を占領した際、襄京へ改名している。

襄陽市

清代に入ると、湖北布政使司襄陽府となる。

1912年に中華民国が建国されて以降、湖北省襄陽道となり、1916年に全国的に道制が廃止されてからは、襄陽県とされ、他の県と同列とされた。


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