BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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山西省 忻州市 ~ 人口 315万人、 一人当たり GDP 25,000 元


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  善無県城(雁門郡城)
  陰館県城(【2代目】雁門郡城)
  広武県城(【3代目】雁門郡城)
  白登山の 古戦場(劉邦による匈奴遠征の失敗)
  九原県城(新興郡城、五原郡城)
  雁門県城(旧上館城、雁門郡城、肆州城、代州城、代県城、雁門道城、雁平道城)
  肆盧県城(肆盧郡城)
  崞県城(崞州城)



【 忻州市の 歴史 】

新石器時代、すでに忻州市一帯では人類の生息が確認されているという。

忻州市エリアは、春秋時代期、大部分が晋国に、戦国時代期には趙国の領土下に組み込まれた。
秦代、前後漢時代には、太原郡、雁門郡(郡役所は、善無県城【今の 朔州市右玉県】に開設)、太平郡に分かれて統括された。

忻州市

紀元前 200年、前漢朝を建国したばかりの劉邦は、自ら匈奴遠征軍を率いて進軍する。漢軍は 平城(今の大同市中心部)で対陣するも、匈奴軍により大敗に追い込まれ、さらに劉邦の本陣が白登山で包囲されるに至る(上地図)。
7日後、調略により何とか包囲網を突破して、南へ逃げ戻った劉邦は、忻口一帯で脱走兵の集団に遭遇する。
劉邦は自分より先に逃げ出していた脱走兵らを身て大笑いし、罪を許された兵士らはそのまま喜んで軍に帰参したとされる。ここから、「欣(よろこぶ)」の文字が「忻(よろこぶ。同義語)」に変更されて、当地一帯を忻州と命名されることとなったという。

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紀元前 214年に秦の始皇帝により設置されていた 九原県城(九原郡の郡都を兼務。今の 包頭市九原区哈林格爾郷孟家梁村)が、後漢末の 215年、今の 忻州市中心部(忻府区)へ移転され、新しく九原県城が築城される。このとき、同じく新設された新興郡の郡都に定められた。上地図。

そもそも前漢時代期には、7代目皇帝・武帝の北方遠征により、秦代の九原県城内に五原郡役所が開設される(紀元前 127年)など漢民族の攻勢が強かったが、後漢後期に入ると、再び匈奴らの勢力が増し、黄河北岸一帯の漢族らは南側へ追いやられるようになっていく。

これに合わせ、雁門郡の郡役所が善無県城から、さらに南側の 陰館県城(今の 忻州市代県の北西部)へ移転される。

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三国時代期には魏国の版図下にあった。上地図。

この時代、北方遊牧系の鮮卑族や匈奴族らの南下圧力はますます激化し、 多くの漢民族らが南方への大規模移住を余儀なくされていく。 これに伴い、雁門郡の郡役所は陰館県城から、さらに南側の 広武県城(今の忻州市代県の西 7.5 km)へ移転される。
このとき雁門郡下には、広武県、善無県、沃陽県、中陵県、陰館県、楼煩県、劇陽県、崞県、平城県、埒県、馬邑県(魏の 名将・張遼の出身地)、疆陰県が置かれた。下地図。

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西晋朝の 2代目皇帝・恵帝の 治世下(291~299年)、新興郡が晋昌郡へ改称される(そのまま郡役所は広武県城内に開設)。後に、晋昌郡は再び 新興郡(さらに永安郡や定襄郡へも改称された)へ変更されるも、最終的に新興郡に戻されることとなる。

南北朝時代期の北魏初年、肆盧県城を郡都ととする肆盧郡が新設される。また同時に、新興郡 (定襄郡)が廃止される。後に、雁門郡役所が広武県城から 旧上館城(今の 代県中心部)へ移転され、そのまま旧上館城が雁門県城へ改称される。

東の北斉と西の北周が華北に勢力を張り合った 560年ごろ、ちょうど忻州市一帯は国境地帯に属し、度々戦火に巻き込まれることとなる(下地図)。
北斉朝の支配下にあった当初、永安郡、永定郡、新安郡、建安郡、広安郡、広寧郡、神武郡、斉郡、吐京郡などが廃止され、また一方で、武州が 北霊州(後に廃止)へ、廓州が北顯州へ改称されている。
その北斉も北周朝に滅ぼされ、557年に華北の全土が併合されると、すぐに北顯州が廃止される。さらに、579年には肆州の州役所が 雁門県城(今の 忻州市代県中心部)へ移転されている。

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南北朝時代を統一した隋朝初期の 581年、新興郡が復活設置される。
唐代初期の 618年、新興郡が忻州へ、雁門郡が代州へ改称され、あわせて都督府が新設される。

五代十国時代の後唐朝の治世下、武州が毅州へ改名されるも、後に廃止される。下地図。
北漢朝の統治時代、今の繁峙県一帯に宝興軍が新設される。また952年には、今の寧武県一帯で寧化軍と固軍が設置される。続いて 954年、 雁門県城(今の代県中心部)内に静塞軍が新設されるも、後に廃止となる。

忻州市 忻州市

その北漢朝も北宋により滅ぼされると(上地図)、すぐに寧化軍と宝興軍が廃止される。979年には固軍も廃止されるに至る。
なお、代州雁門郡がそのまま継承され、州役所、および郡役所は引き続き、雁門県城(今の 代県中心部)に併設された。
980年には、嵐谷県に岢嵐軍が、寧化県には寧化軍が復活設置される。翌981年、今の静楽県に静楽軍が新設される。
1040年、今の五寨県一帯に武州が、今の偏関県一帯に寧辺州が再び設置される。 1115年、宪州から汾源郡が分離・新設される。

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金朝の治世下の 1128年、雁門県に震武軍が新設されるも、後に雁門郡とともに廃止となる(代州役所はそのまま存続)。
1151年には汾源郡から管州が 分離・新設される。
1182年、岢嵐軍、保徳軍、火山軍、寧化軍がすべて昇格され、それぞれ 岢嵐州、保徳州、火山州、寧化州となる。

モンゴル軍の占領下にあった 1219年、崞県が崞州へ昇格される。州役所は今の原平市に開設された。
1221年、岢嵐州が廃止され、その行政区は寧化州へ吸収合併される。また1265年には、睟州が廃止され、保徳州へ編入される。元朝も後期に入った 1338年、寧辺州が廃止され、武州へ編入される。
下地図は、元朝末期に中国全土で勃発した農民反乱と群雄らの勢力図を示す。

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明代の 1369年、武州が廃止され、崞州と 代州、堅州、台州の 4州が、崞県と 代県(雁門県城から名称)、繁峙県、五台県の 4県へ改編される。翌 1370年、管州が静楽県へ、1374年には保徳州が保徳県へそれぞれ降格された。 1487年、代州に雁門道が新設される。
1500年代中期、雁門道が雁平道へ改称されるも、明朝末期に廃止となる(清朝統治時代の 1671年に復活設置)。

忻州市

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清代の 1724年、忻州、代州、保徳州の 3州が直隷州へ昇格される。上図は、当時の忻州城を示す。
清朝末期には雁平道が廃止される。
中華民国時代、忻州市一帯は雁門道の管轄下に置かれるも、後に 山西第一、第二専員公署に分かれて統括された。

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