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湖北省宜昌市 ~ 人口 411万人、 一人当たり GDP 23,000 元


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  宜昌県城
  夷陵県城(宜都郡城、西陵郡城、峡州府城、夷陵州城、宜昌府城)
  秭歸県城
  枝江県城
  夷道県城(宜都県城、宜都郡城)
  遠安県城(臨沮県城、高安県城、汶陽郡城)
  長楊県城(佷山県城、清流県城)
  当陽県城(荊門軍城)



【 宜昌市の歴史 】

宜昌市エリアの歴史は長く、早くも10~20万年前には宜昌市内の清江流域に長陽人と呼ばれる原人の生息が確認されているという。その他、市内では新石器時代の遺跡が多数発掘されており、 7000~8000年前には既に初期文明的な集落が点在していたことが分かっている。

夏、商、周王朝の時代、宜昌市一帯は古荊州の夷陵地区の西部にあたり、山岳民族らの割拠する地域であった。

春秋時代には楚国の最西部にあり、重要な国境地帯とされていた。このころには、すでに城壁を持った要塞が設置されていたようである。

宜昌市

紀元前278年、秦国の大将軍である白起が楚へ侵攻し、王都の郢(楚の文王がかつての王都「丹陽」からここへ遷都していた)を占領する。直後、楚は、陳(今の河南省周口市淮陽県)へ遷都する。このとき、南郡が新設され(郡役所は江陵県城内【今の荊州市】に開設)、今の宜昌市エリアは南郡下の巫県(今の重慶市巫山県)の管轄区に組みまれた。上地図。

この後、紀元前248年、楚は陳から寿春(今の安徽省六安市寿県)へ遷都するも、最終的に紀元前223年に秦に攻め込まれ、滅亡する。
前漢時代も秦代の行政区が継承され、荊州南郡に帰属された。

後漢末期の赤壁の戦い(208年)で曹操軍を撃破した劉備は、戦後のどさくさに紛れ荊州4郡の占領に成功する。最初は荊州牧に劉琦を立てていたが、間もなく死去したため、劉備自身が荊州牧に就く。その治世下で、南郡から宜都郡が分離・新設される。宜都郡の郡役所は夷道県城内に開設され、その下に宜都県(今の宜昌市中心部)、秭歸県、枝江県、夷道県(今の宜都県)の4県が配された。

しかし、魏と組んだ呉により、220年、関羽が討伐されると、この地域も呉領に併合される。

宜昌市

222年夏の夷陵の戦いで、呉は陸遜を総司令官として、蜀の劉備を撃破すると(下地図)、呉はこの地域の支配権を確固たるものとする。これにあわせて、宜都郡は西陵郡へ改称される(後に宜都郡へ戻される)。

宜昌市

西晋初代皇帝の司馬炎の治世下、夷陵県となる。

東晋時代、夷陵県の西側(今の長江の南岸にある黄牛岩から黑岩の間)に宜昌県が新設される。国体のさらなる繁栄を祈念して、この宜昌と命名されたという。

南北朝時代においては、宋朝と斉朝の統治時代、東晋時代の行政区が継承されるも、梁朝の治世下に宜都郡が宜州へ、西魏朝のころには拓州へ、北周朝のころには硖州へ改称される。

宜昌市

長い内戦の混乱に陥った南北朝時代を統一した隋朝は、607年に硖州を夷陵郡へ改編し、その下に夷陵県、夷道県、長楊県(佷山県から改称)、遠安県(臨沮県から改名)の4県が配される。郡役所は夷陵県城内に併設され、荊州都督府の管轄下に置かれた。

唐代には、夷陵郡が硖州へ戻されるも、同様に先の4県を統括した。
五代十国時代、硖州と荊州、歸州の一帯は南平国の版図下に帰属された。

北宋により中国が再統一されると、硖州とその下の4県はそのまま継承された。

元代に入り、硖州が峡州へ改称される。1280年には峡州が峡州路へ昇格される。引き続き、4県を統括した。
明代初期には峡州路は峡州府へ改名される。 1376年には峡州が夷陵州へ改編され、宜都県、長陽県、遠安県の3県を監督することとされた。州役所は夷陵県城内に併設される。

清代の1647、夷陵州は荊州府の管轄下となり、翌1648年には夷陵州から彝陵州へ改称される。

宜昌市

宜昌市

1735年には彝陵州が宜昌府へ昇格され、彝陵県城に東湖県役所と宜昌府役所が併設される。その管轄域は、東湖県と興山県、巴東県、長陽県、長楽県の5県、さらに歸州と鶴峰州の2州に及んだ(上地図)。一方で、宜都県、枝江県、当陽県、遠安県の4県は荊州府の管轄下に置かれた。

1876年に清国とイギリスとの間でチーフー条約(芝罘条約、烟台条約)が締結されると、宜昌府も開港都市に指定される(他に蕪湖、温州、北海の3港)。翌1877年には早くも宜昌に関税局が開設され、外国貿易がスタートされることとなった。

1912年に中華民国が建国されると、府制と州制が廃止され、省、道、県の3行政区体制へ移行する。同年、東湖県が宜昌県へ改称され、興山県、秭歸県、巴東県、長陽県、五峰県、鶴峰県とともに、荊南道に帰属された。このとき、当陽県と遠安県は襄南道に属された。


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