BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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遼寧省 営口市 ~ 人口 236万人、 一人当たり GDP 62,000 元


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  盖州城(盖州衛)



【 営口市の 歴史 】

春秋戦国時代、営口市一帯は燕国の遼西郡に帰属した。秦王朝による全国統一後も、引き続き、遼西郡の管轄下のまま継承される。
紀元前 195年、前漢王朝は遼西郡を大遼河の左右に分割し、遼東郡を新設する。そして、その下に 18県が置かれた。営口市の南部分は平郭県、北部分は安市県に帰属された。

三国時代、営口市は遼口と呼ばれており、公孫氏の支配下に入っていた。 238年、魏により 3代目当主の公孫延が滅ぼされると、一時期、魏に帰属した。しかし、その魏も 265年、西晋へ権力を禅譲するも、中原では西晋王朝下で戦乱が勃発し、中国大陸は以後 300年にも及ぶ南北朝に分断された内戦時代を迎えることになる。中原の統治力の弱まりにあわせて、西域などで遊牧騎馬民族らが力を蓄え出し、北方では鮮卑族や高句麗の勢力が台頭してくる。このころには、営口市一帯は歴林口と呼称されていたようである。
現在の営口市一帯が属した平郭県と安市県の地名はそのまま存続されていたが、後燕王朝の 385年、平州役所が平郭県に移設されることになる。このころより、営口市は行政都市として歴史の表舞台に出るようになった。

営口市

時代は下って、南北朝時代を終結させた隋王朝は短命に終わり、続いて唐王朝が中国を平定する。その後も唐王朝は西域、北方、東方遠征を繰り返して、その領土を急速に拡大させていく。その一環として、東方戦線で対峙した高句麗との攻防戦は有名である。第 1次(644~645年)、第 2次(661年)、第 3次(667~668年)の末に、唐は高句麗を滅亡させることに成功する。その第 1次遠征は、 唐の第 2代目皇帝「太宗」が直々に親征する大規模なものであり、多勢に無勢であった高句麗軍もよく善戦した戦争であった(上地図参照)。唐軍は陸路と海路から遼東半島へ侵攻し、蓋牟城や白巌城、卑沙城、遼東城を陥れ、続いて 安市城(鞍山市海城)を包囲するも、高句麗軍の守備の堅さと朝鮮水軍の抵抗により、長期戦へと持ち込まれ、冬の到来によって第一次遠征軍は撤退を余儀なくされてしまう。この落城した 4城のうち、蓋牟城は当時、安市県の遼河流域に築かれていた 盖州古城(営口市盖州)のことである。

唐代末期には北方遊牧民族の契丹族、女真族、モンゴル族らが短命王朝を建国するようになり、営口市はその各々の王朝下で、この地域一帯を統括する行政庁が設置された。
契丹族により建国された遼国は、926年に滅亡させた渤海国の多くの州や県役所のすべてを、この営口市の地へ移設させている。かつて渤海国が朝貢関係を結んで唐王朝から取り入れた多くの統治制度は、契丹族の遼国が封建社会を形成している上で、このころ大いに参考にしたといわれる。

営口市

明代に入って、州県制度は廃止され、衛所制度が導入された。営口市の南部分は盖州衛、北部分は海州衛に帰属された。このころ、営口市の一帯は、梁房口と呼ばれていたらしい。明末の 1621年、ヌルハチが建国した後金国により、この地方の明領も占領されてしまう。以後、耀州(今の大石橋北岳州村)に中心屯兵鎮守が設置され、統治されることになった。
明滅亡後、清はすぐに中原へ侵攻し、北京を首都に清王朝を建国する。最初、清王朝は満州人と漢民族を分断して統括していた。例えば、営口市の北部には海城県が設置され、南部には盖平県が設置され、漢民族を監督するものとされ、他方、熊岳県に設置された副都統は遼東半島に居住する満州民族を監督するものとされている。また、熊岳県や盖平県、牛庄県のそれぞれには、防守尉もしくは城防尉が置かれ、八旗(清時代の固定身分制度における武士階級者に相当)の担当とされた。 また、遼東半島は長らくの戦争で人口が大きく減少しており、まだまだ経済的にも貧困地帯であったため、山東省方面の漢民族を大量にこの地域へ移民させている(満州地域への移民は厳しく制限されていたが)。
海路による欧米勢力の進出を受け、1861年、清政府は営口市に奉錦山海関兵備道を設置する。さらに、1867年1月、営口海防同知庁も新設され、海事の治安維持を担当させる。
1900年、ロシアがこの地を占領し、営口民政庁を設置する。それから日露戦争で日本がロシア勢力を追い払う 4年間、ロシア軍政が敷かれた。
1909年、清政府は営口直隷庁を設置し、統治体制の刷新を試みた。
清国滅亡後の中華民国時代、営口直隷庁は営口県へと改編される。

営口市

なお、営口市街区は近代以降に開発、発展した都市であるため、遺跡はない。しかし、ここから南へ 40 kmにある盖州市には、かつて高句麗時代の築城以来、存続されてきた 盖州城跡(盖州衛が設置)が残る。といっても、今日では完全に城壁は撤去されており、その旧市街の面影もわずかな路地名に残されているのみである。北関郵便局、西関路、城後街、上帝廟、盖州鐘鼓楼。 また堀川の一部も東面、南面に残されている。

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